銀色ジャンパー
新車を買った知り合いから、古い方をゆずりうけ、初めて車のオ-ナ-になった頃のことだ。免許をとって3年たっていたから、運転の勘もかなりあやしくなっていた。
初めてのドライブは近くの駅まで、と決めた。自動車学校で教わったとおり、ハンドルの10時10分の位置をきっちり握り、正面の信号をにらんでいた。口はかわき、手足はシンと冷え、胸は重たく脈うった。目の前の横断歩道を楽し気に歩いて行く人たちが羨ましく見えた。
信号が青になり左に曲がろうとしたとき、車はガクンと動かなくなった。アクセルもブレ-キも異様に重かった。踏めば、スっと沈むはずのペダルが、足に力をこめても床との間に何かがはさまっているように、下までおりない。後ろから来た車がクラクションをならし、それでも、じっと止まったままの車を追いこして行った。なにがどうなったのかわからない。かっと顔が熱くなるのを感じた。
幸いなことに道はかなり急な下りだったので、車はその坂をのろのろと重い体をひきずって下っていった。もう少し先に行くとガソリンスタンドがあるのを思いだした。やっとの思いで車を左によせてとめると、「出光」の看板めざして走った。
「アクセルが急にきかなくなったんです。みてください!」
銀色のジャンパーを着て、細い金縁の眼鏡をかけたおにいさんが車まで来てくれた。彼は身体を斜めにして腰からすっと車に乗り込むと、こともなげにエンジンをかけアクセルをふんだ。車はスルスルと素直に動くではないか。
「おかしいですね。オイルが足らないのかもしれないからみてみましょう。」
彼はわたしがさわったこともないレバーをひいてボンネットをあけ、あちこち調べていたが、さらりと言った。
「大丈夫です。アクセルを踏めば、ちゃんと動きますよ。」
乾いた口の中で思うように動かない舌で、モゾモゾと礼を言い、視線をあげると、ジャンパーの胸に「石川」という名札があるのが目にはいった。ロマンチックとはほど遠い、石川氏との出会いだった。
再会は思ったよりずっと早かった。一ヶ月後、駅近くの花屋の前で、サイドブレーキが解除できなくなった。止めたとき、力いっぱいひき過ぎたためらしかった。エンジンをかけた車の中で汗びっしょりになりながら、ボタンをおさえ、両手で力をこめておろそうとしても、レバーはびくともしなかった。
しょんぼりとガソリンスタンドまで歩いた。石川氏はそばにあった灯油配達用の小型トラックに乗り、わたしを助手席に乗るように促した。こんな情けない用事で彼をわずらわせたくなかったが、しかたがない。わたしはのろのろと車にのりこんだ。
彼の運転は小気味よかった。ハンドルは手の中でスルスルと軽やかに回った。左折する時、車はカーブに沿って少しの無駄もなくクルリとむきを変えた。わたしは遠心力で軽くシートにおさえつけられたまま、ちょっと猫背で運転している彼の方を見た。
髪に数本の白髪が混じっていた。35歳くらいだろうか。
サイドブレーキは石川氏がひょいとつかむと、あっけないほどすなおにカクンと下におりた。
「わたし、車になめられているのかな・・・」
わたしの言葉に、初めて石川氏は笑った。
「おいくらですか?」
「いや・・・」
まだ笑いの残っている顔で手を横にふった。
「灯油用」と書かれたポンプをつんだトラックの後ろ姿を見送りながら、なんだかおかしくなった。「救いの騎士」の乗り物にしてはムードがない・・・
運転もだいぶ慣れた頃、事故をおこしてしまった。逗子までドライブし、レストランの駐車場にバックで入れようとした時、柱にぶつけたのだ。ガンッと言う衝撃に、おそるおそる降りてみると・・・バックナンバーの真ん中から見事にへこんでいる!おまけにハッチバックのドアはあいたままで、しまらない。あの、サザンの曲にピッタリのルート134を、こんな車で帰るなんて・・・おちこんでスピードの出せないわたしの車を、大型トラックが轟音をたてておいこしていった。
ガソリンスタンドに行くときはいつも気が重いが、今回が最高だ。
「いやー、派手にぶつけたね。」
「こいつはひどい。」
まわりの人はなんて無遠慮なんだろう。でも、石川氏は黙ったままだった。車のへこみを手でなぜなにか考えているふうだった。
「かなり費用はかかるとは思うけれど、ともかく修理工場へ行って見積もりをしてもらいましょう。」
彼はわたしを家まで送り、その足で修理工場へ行ってくれることになった。いつもはわたしが座っている運転席に、石川氏が座っている。黙っているのがおもはゆかった。彼がどちらかというと無表情で、必要以上のことを口にしないのも気になっていたので、わざとくだけた口調で話し掛けた。
「ねえ、車の運転なれた人って、バイパスとか高速にでてもドキドキしたりしないの?」
「そんなことはないねぇ。だけど、団地の中なんかの道はやっぱりこわい
すよ。いつ子どもが飛び出してくるかもわかんないしね。」
彼は少し顔をわたしの方にむけたが、視線は注意深くあちらこちらに配ったままだった。答えが平凡すぎる・・・わたしはちょっとがっかりした。
車はもとどおりにするには大金がかかることがわかり、応急修理だけですますことになった。
その後は給油以外でガソリンスタンドに行くこともなくなった。ある朝、通勤途中によると、石川氏はあいかわらず無表情のまませっせとタイヤを洗ってくれた。運転席から「こんにちは!」と声をかけると、「おはようございます。」といってほんの少し口もとをほころばせた。彼がアルバイトの男の子と目の前のフロントグラスをふいている間、わたしは落ち着かない気分になった。バッグの中をかきまわし、何かをさがすふりをした。
給油がすむと、彼は道路の真ん中に勇ましく走り出て、右手をあげ、切れ目なく続く車にちょっとお尻をつきだすようなかっこうで会釈をくりかえした。何台目かの車がやっと止まった。彼の合図に会釈をかえしながら車を右に大きくカーブさせ道路に出た。わたしの手の中でも、もうハンドルはスルスルと回るようになった。彼はわたしの上達ぶりに気づいてくれただろうか。
「ありがとうございました!」
銀色のジャンパーを着て深々と頭をさげている姿がバックミラーにうつった。
おわり