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紅一点の魔物

 新しく開通した地下鉄ほど地下深くを走っている。いくつもの既成の線路の下しかスペースがないからだ。僕の通勤に使う路線もそうで、地下深くにもぐっていく長い長いエスカレーターに乗りこもうとすると足がすくむ。右側の上りエスカレーターは地底に住む濡れ濡れとした爬虫類の長い体で、背中に通勤客という沢山の寄生虫をのせて薄暗い道をしゅるしゅると上がって来るように見える。
 そんなことを考えながら下りエスカレーターに身をゆだねていると、すれ違っていく上りエスカレーターで起こったとんでもないことを見てしまった。老人の背中の半分開いたままのリュックから、その後に立つ若い女性が素早く財布を抜きとったのだ。猫背で小柄の老人は全く気付かない。思わず「あっ」と上げた僕の声も周りの喧騒に消され二人との距離はぐんぐん開いて行くばかり。僕は右側のスペースを歩いている人をよけながら駆け下り、隣の上りエスカレータ―のこれも右側の空いたスペースを駆けあがった。

 改札手前で二人に追いついた。はぁはぁ息を弾ませながら、老人パスを取り出した老人とそれを見ている駅員に言った。
 「財布を盗まれていますよ、僕、見ていたんです!」
 「あ!ない!」
 老人が身をねじってリュックをおろし声を上げた。あの女性は、と見るとラッキーなことに改札を出た先のトイレに入っていく。黒いコートで中肉中背、黒い帽子を被っている。
 「ほら、あそこ!今トイレに入った女性が犯人です!」
 僕の訴えで駅員がトイレに向かい僕も後を追った。

 女性用トイレだから入るわけにいかずしばらく待ったが誰も出てこない。
現れた中年女性に黒いコートの女性を見なかったか聞くと
 「さぁ?奥の出口から赤いコートの人が出ていくのは見ましたが」
 そのトイレには奥にも出入口があったが、そこから出ても改札への通路に繋がっているから見落とすはずはない。そういえば赤いコートの女性の姿がチラリと視界をかすめたのを思い出した。赤いコートでしかも金髪。この人じゃないな、そう思ったことも。

 しびれを切らして駅員と中を調べたが誰もいない。その時、僕は重要なことを思い出した。リバーシブルコートだ!財布を抜き取った女性の袖口から裏の赤い色がちらりと見えた。あの女性はトイレに入り、コートを裏返しに着直して帽子を脱いで出てきたのだ!

 慌てて中央通路に出ると、はるか先に金髪で赤いコートの女性が早足に歩いて行くのが見えた。周りの黒っぽいコートの通勤男性たちはまるで彼女を守る兵士のように足並みをそろえて去っていく。
 視界から消える寸前、彼女はふり返って真っ赤な舌をペロリと出した。
確かにそう見えた。

                   おわり(1089文字)


山根あきらさんの企画に参加させてください。
山根あきらさんお世話をおかけしますがよろしくお願いいたします。

参考
関東のエスカレータ―は二人が並んで乗る幅がある場合、立ったままの人は
左側に、歩いて上り下りする人は右側を歩きます。本当は歩行禁止ですが
暗黙の了解ができているのです。この「僕」のように右側を走るのは
歩いている人もいて大変危険です。やめましょう!

#青ブラ文学部


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