noteを消費したくない
noteを消費したくない。
自分の口からその言葉が出たとき、
ああ、私はそう思っていたのかと後から気づいた。
消費する。
この感覚に気がついたのは高校生のときか、大学に入った後の話か。
ともかくここ数年の話です。
その当時、私はイラスト交流サイトでいろんな人の絵を見るのが好きでした。
趣味でイラストを描いている人が、作品にタグをつけて投稿する。
noteのイラスト版みたいなものです。
人気アニメを検索すれば、プロじゃないのが不思議なほどに上手なイラストがわんさか出てくる。
一時期、むさぼるようにそのサイトで絵を見ていました。
私は投稿していないので、本当に見るだけです。
1つの記事に10枚イラストが載っていても、画面をスクロールしてあっという間に流し見ていました。
最後のイラストに行きつけば、見た気分になって、スキを押してハイ次の作品へ。
スキを何百も集めているような素敵なイラストを、片っ端から見ていました。
いつものように新しく投稿されたイラストを眺めていたある日、
何やってんだ自分、と画面をスクロールするのを止めました。
唐突に、気づいてしまったのです。
この1枚の絵を仕上げるのに膨大な時間がかかっていて、描く人の思いが込められいて、
ようやく完成した1枚を、こんなふうに流し見るのはある種の失礼じゃないかと。
私は絵を描かない。だから、その絵が完成するまで工程や、時間や創意工夫が分からない。見当もつけられない。
でもまさか、その絵がどこからともなく急に現れたわけじゃないでしょう。
誰かが時間や思いをかけて作ったイラストを、よく見もせず、見た気分になってスキを押す。
これが、作品を消費しているように感じられました。
そして、この感覚は好きじゃないとも気づきました。
「消費する」感覚の原点は、イラストサイトでの経験からでした。
この経験は、「noteを消費したくない」につながっています。
note記事1つにも、書く人の時間や思いが込められている。
記事を書くようになって、ようやく実感することができました。
だからこそ、消費するように記事を読みたくないと思っています。
欲を言えば、音読するぐらいゆっくり読みたいなあと思っています。
記事を読んでいると時々、鳥肌が立つような一文に出会います。
どうしてそんな言葉が出てくるんですか、
いったい今までにどんな言葉に触れてきたのですかと、
思わず聞きたくなるような一文。
そんな一文や言葉に少しでも出会いたくて、見逃したくない。
だからこそ、流し読みでは言葉を眺める時間がちょっと足りないのです。
フォローしている人の記事はどれも素敵で見逃したくないけど、
流し読みしかできないほど疲れているときもある。
そんなときは記事を開かず、タイトルとサムネイルだけ心に留めておき、後で読みにいく日もあります。
これは、良いとか悪いとかじゃなく、好みの問題だと思っています。
私は、「noteを消費したくない」というスタンスをたまたま選んだだけ。
違うスタンスの人を、それはおかしい!とか言うつもりは全くありません。
例えば、
コンビニで隣の人が何を選んでいても気にしないし、
ましてやなんでその商品買うのよとか言いませんよね。
そんな感じです。
商品がスタンスや価値観に変わっただけ。
良いも悪いもなく、ただ選んだだけ。
それでも私が選んだ「noteを消費したくない」に、何か感じるところがあれば幸いです。
こんなスタンスの人もいるんです。そんな紹介でした。
オンライン雑談会でポロッとでた言葉を掘り下げてみたら、想像以上に思っていることがありました。
そして、こうすべき、と思うとハードルだけが上がってしまうと気づいたので、柔軟に変わる気持ちも忘れずにいきます。