とんちきバージンブルース、かつての
つまりあたしはバージンで鬱屈としており、
どこまでもへんくつでピュアだった
石川啄木詩歌集を愛読常備し、部屋に花を欠かさず飾りつけ、古い映画をこよなく愛し、毎日モーレツに死にたがっていた
理由はよくわかっていた それでも辛かった
休日よくひとりで銭湯へ通っていた
飲酒量と希死念慮が最大値へ達するころ最終地点として辿り着いた趣味が(大きいおふろ)だったのだ
音楽なんてもはや効き目をなさなかった(傷つきながらも愛聴していたのは坂本慎太郎とたまだけ)ので確実かつ物理的に癒される方法としてそれは最適だった
昼過ぎにのろのろ起き、市バスに乗って田舎の麓で降りる
日当たりのいい田園の隅をとぼとぼ歩いた先にぽつんとみえる、きれいな銭湯
当時私が最も正しいとおもえる場所だった
海より、喫茶店より、教会よりも
今はもうない 惜しくも閉館したのだ
行き先に通りすがる二世帯住宅らしい民家を横目でみるだけでも虚ろな気分になっていた、ぜつぼうすらしていたのかもしれない とにかく生きたり、生まれたり、産んだり、そういうことについて傷つきやすかった
銭湯は広くて、岩盤浴もできるほど設備が整えられたすてきな場所だった(私は臆病なので岩盤浴は使用しなかった)
温かいお風呂も、斜陽のさす座敷で牛乳を舐めながら読む太宰も、食堂で出される鍋焼きうどんの豊かさも、どれもこうふくの限りだったが私がとくに悦してたのはそのどれでもない もっとずるいこと
それは露天風呂に浸かりこっそりとじぶんの裸体を眺めることだった
随分白くてやわらかそうにしていたし、昼過ぎのうららかな日差しに照らされた太ももなど我ながらうっとりしていた
その頃はいまよりも太っていて、肌に水の波紋がよく映えた
お客はご婦人ばかりで、私は彼女らを横目にひっそり自身の若さの輝きを誇った しかもバージンなの!そしてこんなにも、死にたい………
甘美といってしまったらなんだか陳腐だが、
そういう天邪鬼なきもちをする為に銭湯に通っていたような気がする 最低だ でも必要だった そしてまた陰鬱なきもちで帰路につく ずる賢いあそびを何度もやった 帰り、暗いバスの車窓にもたれ、深酒することだけぼんやり考えた 二階堂のあの茶色い大瓶の逞しさ……
当時つげ義春の短編が好きだったから、かなり心強くはあった もうわけがわからないということにはならなかったのはいわゆるサブカルのおかげだった
豊かで切ない暮らしをしているときに限ってすてきな映画に出逢ってしまう
ドライブ・マイ・カー
この映画もそのひとつだ
苦手な上司に上映割引券を頂いたので偶然観に行ってみた、という流れだったはず
ほんとうに感謝している、それがなければ
わたしはこの作品を愛すことはなかったから
アカデミー賞を獲ったということで再上映がなされていた、かなり遅いタイミングで観たらしい
あらすじを記しておく 原作は村上春樹である
三時間もある上映ということで
私はロリータ服を着て映画館へ向かった
なぜならパニエを履いているから、おしりが痛くならないだろうという算段だ
本作はかなり素晴らしく、上映中は映画を浴びたという感覚だった おしりもきちんと守られた
賛否両論ある村上春樹の性描写について、
私は正直かなりすきなんだと思う 恥ずかしいけど、きちんとかきます 村上春樹を読んでいるときあたしは苛々してるしむらむらしてるから近づかないほうがいい、と伝えておきたいくらいには丁寧に、敏感に、繰り返し、読んでしまうから
ほんとに内緒にしていて欲しいです
当時はまだノルウェイの森しか読んだことが無く、
それでいてもドライブマイカーのあのうわごとセックスにはときめいたのだった 妻は行為の最中、唐突に物語を語る そしてその物語はひとたび眠ると妻の記憶から消えてしまう しかしその物語は次の行為の際、続きが語られる… そして全貌を記憶した夫を頼りにドラマの脚本を仕上げていく妻 という構図だった
創作とセックスが同時に行われる様は
私にとってかなり魅力的だった 西島秀俊があまりにもセクシーだったというのもある てへ でもそもそも性行為自体が創作みたいなものなのかも、ここからはネタバレになってしまうんだけれど
この夫婦は娘を亡くしており、そしてつぎの妊娠をする選択もしなかった
だから私が思うに妻は子供の代わりに、物語を産んでいたのではないか、という解釈をしている
それはともかく、私はそのうわごとセックスをしてみようと思った かなり、ほんきで
行為のあとには気絶したふりをしてみる
ちょっと突飛で可愛らしい小品のようなおとぎばなしがいいかしら、とかこの奥さんのようにすこしホラーじみたスリルのあるサスペンスがいいかな、とか
本作では前世が八目鰻だった少女が好きな男の子の部屋で自慰をする、そして…といったおはなしだった 結論として私はそれを出来ずにいる なぜならあまりにも恥ずかしいからだ 現実的でないからだ 途中で我にかえるにちがいないからだ つまんないなとも思う だけど銭湯に通い詰め、しわしわよぼぼの女体を横目に、希死念慮を抱えつつも麗しく張りつめた自らの身体にときめいていた頃のとんちきで浅はかでかわいい私なら、やっていたのかもしれない ぜんぜん 悠々 躊躇いもせず
彼氏がどん引きしててもなんのこと? とシラをきってまた常習していたのかも
つまり私はつまんなくなってしまったのだ 大人になってしまったのかも ロリータだって一年くらい着ていない バージンの時分バージンブルースを歌っていたかは定かでは無いけれど、当時にしか出来ない受け取りかた、みたいなものが確かにあって、それはかなりずるくて愛しくてへんくつなものだった 戸川純の遅咲きガールをかなり聴き込んだ末にわたしはそれを失った
正直、温泉での例のずるい遊びについては多少罪悪感と未来の自分への翳りを伴わないわけではなかった
しかしミュシャ展に一緒に行った彼氏が夏海ちゃんのからだみたいと言うのでそれだけで私の罪悪感はたちまち消え失せた なあんだ 簡単なことだったんだ
ドライブ・マイ・カーにでてくる最も救われた台詞、「僕は正しく傷つくべきだった」これをわたしはやり仰せたのかもしれない 諦めじみた気分だったとしても「僕たちはきっと大丈夫」そう言うしかないともうわかっている いまではしわしわよぼぼな身体になるまで生きていてもいいような気もしている