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人生の終幕

初めに書いておきます。
私は現時点で余命宣告を受けているわけでも
なく、突発的な事故がない限りはこの世から
いなくなることが考えにくい状態ではあります。

しかし、私は普段からかなり孤独を感じる機会が多く不思議と死について考える時間があるため、そのことについて書き記しておきたいなという
思いが大元にありました。

これは人間は社会的動物が故に1人だと生きていけないという根底的なものが精神的に備わっていて、負い目を感じているからでしょうか?

その現代社会は少子高齢化が問題視され始めて
以降、「終活」などの話題が挙がってきております。

この終活は自分が死ぬ時はどのように弔って
もらいたいかという社会文化的なことと、正負の遺産相続のことを考え合わせたものを自身で
将来の計画として練ることと解釈しています。

始まりがあれば必ず終わりが存在している現状のため、私が人間として生きるこの瞬間は始まりと終わりの中間にあるわけです。

始まりー中間ー終わり、この3点のみで考えた
場合は生きている人は皆“中間“に位置しており、
“終わり“を考えるのに遅いも早いもない気がします。

よって私は人生の終わりとなる死について考えているのでした。

えらくとっ散らかった前置きでしたがここから
私の本題と言える意見を綴っていこうと思います。

先ほど「終活」について触れた部分に沿って書いていきますと

  1. どのように自分の死を他者に考えてもらいたいか

  2. 遺産をどのように他者に扱ってもらいたいか

この2点を抑えれば、重大な部分は捉えているのではないかと思います。

早速1.についてですが、これは土や海に還してもらえれば葬式などの儀式は不要という意見です。

私は葬式などに関して、なぜわざわざ儀式を取り行った後に燃やす必要があるのか常に疑問に思っています。

儀式を取り行うのは故人に対して“生前の感謝を
伝えている“という意味だけを考えると納得できる部分が大いにあります。

しかし最近では安くても葬式を行える状態を
作っている葬式の“ビジネス感“と葬式の意味に
ついて全く考えず、周りが行っているから喪主という立場になった場合に“取り敢えず開いている感“を感じてしまいます。

私自身も“葬式“そのものについて全く調べようと考えたことがない故に必要がないと思ってしまう節はありますが。

この点は資金が潤沢で故人を敬う気持ちがあれば自然と葬式を開こうとするのでしょうか?

話を戻すと私に対しては他者がどのような感情を抱こうとも葬式は開く必要がないという考えです。※あくまで開かなくても問題がない場合で考えています。

そして火葬でもわざわざ死体を燃やす意味が全く
分からず、これこそビジネスでのみやっている
感じを強く感じます。これに関しては土葬が簡単にできない国特有の問題も火葬を助長しているとは思いますが。

続いて2.は負の遺産さえ作らなければ何も問題なく、生きている間はこれを作らないように生きるという意見です。

これは深掘りする必要もなく綴った言葉通りの意気込みなので、死の直前に負の遺産があった場合は悔やまれます。

以上が私の考えです。
まとめるならば、死んだ奴は放っておいて自然に還し、使える遺産があるならば好きに使ってくださいということです。

─追記─
お墓の問題に関しては私個人では必要がない意見とし、先代や後代の意思(必要性の有無)は尊重したいところです。

たまたま投稿日が年始付近で、よろしくないかもしれませんが私にとっては関係ありません。
ここまで読み進めてしまった方々もこういったことをふと考えてみるのは如何でしょうか?

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