#4.私のいつまでも大好きなおばあちゃんの話
今日は、山形の実家で暮らしていた時に一緒に住んでいた、父方のおばあちゃんのことを書こうと思う。
先月末、おばあちゃんの立ち日だった。お墓参りには行けなかったけど、海に向かってお祈りをした。
私は山形の田舎に生まれた。両親は農家をしているため、いつも外で田んぼや畑仕事をしたり小屋でお米の精米をしていて、昔から私にはとても忙しそうに見えた。
でも家には、いつもおばあちゃんがいた。おばあちゃんは、とても寛大な心を持っている人だった。いつも優しくて、怒ることも何か口出しすることもほとんどなかった。歌を聴いたり歌うのが好きで、歌謡祭は毎週必ず見ていたし、いつも何かしながら楽しそうに歌を口ずさんでいた。そして、いちごのジャムパンと、ところてんが好きだった。
そんなおばあちゃんは特に仕事もしていなくて、家で家事をしたりお散歩したり
よくお友達が家に来てお茶をしたりしていた。
だから私が幼稚園、小学校の頃は、いつも学校が終わるとおばあちゃんがいるリビングで宿題をしたり、一緒にテレビを見たり、外で散歩をして沢山遊んだ。
私はおばあちゃんが大好きで、お菓子も絶対に半分こして一緒に食べたかった。
今でも、小さな一粒のグミを半分にして2人で食べた日を覚えている。今考えたらそんなことするなんてちょっと笑えるけど、そんな日々が私にはすごく楽しくて、貴重な思い出だ。
おばあちゃんは昔から心臓が悪くて、毎日沢山の薬を飲んでいた。
だから結構頻繁に入院もしていた。
小学生の頃は、親が病院にお見舞いに行くときに私も一緒について行っていた。
でも私が中学、高校生になってからは、休みの日に自転車で1人病院に行ったり、学校帰りにドラッグストアによっておばあちゃんの好きなジャムパンを買って
会いに行ったりしていた。
でも正直中学生くらいの私は、当時していたバスケの部活で疲れていたり、友達優先になったり、スマホばかり見ていたり、思春期なのもあって、おばあちゃんと
ちゃんと話したり一緒に散歩に出かけたりすることが少なくなっていたと思う。
2019年5月、早朝だった。
ガタン!という音と共におばあちゃんの叫ぶ声で私はベッドから飛び起きた。
トイレに行こうとしたところ足を滑らせて思いっきり転んだようだった。
股関節を骨折し、そこからまた入院生活が始まり、家に返って来てからも常に
ベッドと車椅子の生活をしていた。
おばあちゃんが自力で立ったり歩いたりするのを見ることは無くなってしまった。
それを機に、おばあちゃんはだんだん痩せて体も弱くなって、2年後には、いつの間にかちゃんと会話をすることも出来なくなっていった。
当時高校3年生の私は何かと忙しく、おばあちゃんにつきっきりになることもなかったから正直あまりどんな様子だったかは記憶がない。
ある日の夕方、携帯に連絡が来た。
”今おばあちゃん亡くなった” 兄からのLINEだった。
2021年春、おばあちゃんは天国へと旅立った。82歳だった。
最期に会ったのは、進学で東京に引っ越す前だった。その日は重そうな雪が止まずに降っていた。
おばあちゃんは施設にいて、ちょうどコロナのせいで会う時間さえ限られていた。
でもちゃんと覚えている。
”私、東京で頑張るからおばあちゃんも絶対長生きしてね”って伝えたことを。
もう長く無いんだろうなって心では分かってはいたけど最期だと思うことは出来なかった。
お葬式の前日には、大きな見開きの色紙を2枚買ってきて、今までのおばあちゃんの沢山の写真を貼った。おばあちゃんへのメッセージも書いた。
一般的に四十九日は、泣くのをやめ、悲しみに区切りをつける日とも言われるらしいが、そんな四十九日も涙は止まらなかったし、3年経った今でもふとおばあちゃんのことを考えると自然と涙は流れる。
小さい頃はずっと一緒にいられると思っていたおばあちゃんとの過ごした時間は、想像以上に短かった。
あの時握りしめていた携帯なんか置いて、もっと沢山話せばよかった。
ベッドから動けないおばあちゃんの隣に行って、一緒にご飯を食べればよかった。
成人式の私の姿も見せたかったし、こんなに綺麗な沖縄にも来てほしかった。
今更思っても仕方ない後悔は沢山ある。
だから、遠く離れていても、今生きている両親にも、母方のおばあちゃんにも沢山会いに行きたい。
絶対後悔しないことなんてないと思うけど、なるべく思い残しがないように皆んなとの思い出を沢山作っていきたい。
当たり前だと思っていた日常を、もう当たり前だと思って過ごしたくない。
家族と過ごす時間を大切にしていきたいと思う。
天国のおばあちゃん
この文章を書こうと思わせてくれて本当にありがとう。
大切なことに気付けたよ。
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