日本と海外の狭間で感じたこと – 過去の医療現場で学んだことと今思うこと


「日本と海外の狭間で感じたこと – 医療現場で学んだことと今思うこと」


こんにちは、猫田です!!

今日は「日本が好きだけど、少し疑問を持っていること」についてお話しします。

先日、社長のMickeyに「いつか日本に帰るかもしれない」と伝えました。ニュージーランドが嫌いだからとか、合わないからというわけではないです。お風呂に入れないからという理由でもありません。(笑)
むしろ好きです、ニュージーランド。

なぜなんでしょうね?


日本には会いたい著名人がたくさんいる、本は紙媒体で読むのが好きだ、とかそんな小さな理由がいくつも積み重なって日本の方が良いという感じ。

日本の暑さは猫田的には『死』を感じるので、ニュージーランドの過ごしやすさを考えると、帰国について今はまだよくわかりません。

ただ、日本から離れてみて初めて「日本も捨てたもんじゃないな」と感じることが多くなりました

最後に日本にいたとき、私は看護師として働いていて、生活のほとんどが医療に囲まれていました。SNSでも医療関係の投稿ばかり見て、本も医療について読む、もちろん仕事は病院。そんな環境で、なんだか重たく感じることが多かったんです。

でも今は、違う国に住み、異なる文化に触れ、全く違う業界の人たちと話すことで、見えてくるものが変わりました。SNSでも、不動産や経営者、起業家、日系企業など、今までとは違う分野のことを学び、日本でも活発に頑張っている企業を見つけることができました。

「あ、この社長の言っていることは素晴らしいな」とか「ここの社員の働き方はいいな」と思える企業がたくさんあって、それを見るたびに日本人も頑張っているんだな、と思いました。それは猫田にとって本当に大きな発見です。

最近、そうした企業のボスたちが共通して発信しているのが、「会社負担の社会保険料が高すぎる」ということです。社員の手取りを増やすために頑張っているけど、やるせなさを感じると。

実は私も看護師をしていた時、粗収入で30万円、手取りは22万円くらいだったと思います。社会保険料や税金が引かれていくたびに「これは一体どこに使われているのか?」と感じていました。

そうして思い浮かぶのは、やはり高齢者医療に多くの資源が割かれているのではないかということです。詳細なデータは見ていないので、これはあくまで私の感覚ですが、確かに医療の現場ではそういう実感がありました。

延命治療についても疑問を抱くことがあります。もちろん、本人に意思があり、助かりたい、長生きしたいという高齢者であれば、どうぞ医療を受けてくださいと心から思います。ただ、私が病院で見てきた高齢者の多くは、言葉も発することがほとんどなく、体もほとんど硬直していて、自力でご飯も食べられない方々ばかりでした。

寝たきりで動けない方が、床ずれを防ぐために数時間おきに看護師がころころ体位変換をする。自力でご飯が食べられないので、経管栄養で鼻からチューブを入れ、1時間はずっと同じ体勢のまま栄養が少しずつおなかに入っていく。さらにチューブが擦れて鼻に床ずれができる。おむつ交換でうんちだらけのお尻が真っ赤になっている。痒い所を掻くこともできない。天井をずっと見つめている。

そんな方々に、多額の社会保険料が使われていると考えると、少し疑問に感じます。

彼らが「生きたい」と願っているのかどうかも、正直よくわかりません。

ある日、「もう生きたくない」とぽつりと言った患者さんの言葉が、心に残っています。

それでも私は点滴の針を刺さないといけなかった。生きたくないと願う人を生かすために。

おかしな話だなと思います。



個人的には、もし自分がそうなったら、安楽死を選びたい。痛みや苦しみを伴わない最期を迎えたい。それが、自分にとって尊厳ある終わり方だと思っています。

私は整形外科で働いていたので、慢性期病棟のような長期療養が必要な患者さんが少なかったので幸いでした。もし、そうした患者さんたちの多い病棟で働いていたら、心が折れてしまっていたかもしれません。

毎日朝には昼の経管栄養の患者のご飯(袋に入った液体)を何十人もセット。体位変換を数時間おきに行う。

人を診る、というよりただの『作業』と感じます。


そして、それをしている医療者は安月給なわけですが。

猫田は看護師不足という問題の前に、日本の医療制度そのものを見直すべきだと感じます。無理に延命治療を施すよりも、もっと尊厳を持ったサポートが必要ではないかと。

それでも、看護師という仕事を嫌いになったわけではありません。むしろ、ヒトを支えるために働くことが好きです。今看護師をするならば、おそらく違うポジションで働くと思います。

こういう話をすると、看護学生時代に実習で担当した患者さんのことを思い出します。その方はとても裕福な社長さんでしたが、足の骨折と認知症の悪化で、入院中はほとんど食事をとらず、水も飲まず、ケアに苦労していました。

ある日、自宅に戻れるかどうか調査するための訪問があって見学に行きました。やはり社長だけあって奥様と二人で大きなマンションに住んでいて、

「この広さで、果たして自宅療養ができるのだろうか?」と疑問に思っていました。

ところが、玄関に着いた瞬間、その社長さんは歩行器を持って歩き始めたんです。お気に入りの椅子に座り、足を組みました。骨折は…?(笑)

奥様にお茶を頼み、自らそれを飲んでいる姿を見て、驚きました。

その瞬間、彼が「人としての尊厳」を取り戻したと感じました。

その後は彼の自立を支えるための具体的なサポートについて話し合いました。

私はこの社長さんの可能性を疑ったことを恥ずかしく思いましたし、病院に居続けるということは尊厳を削っていく行為そのものだと気づきました。

こういったサポートこそが、本来高齢者に対して行われるべきものだと思います。もし、それでも寝たきりになってしまったら無理に延命治療を施すよりも、尊厳ある終わりを迎えさせることが大切ではないでしょうか。

毎日「薬を飲んで、病気治りませんよ」「ご飯をちゃんと食べて、脱水になっちゃいますよ」「またおしっこ出たんですか?変えるから動かないでください」と言われる生活に、果たして人としての尊厳はあるのか疑問です。

そういう方々に多額の社会保険料が使われていると考えると、なんだか切ない気持ちになります。彼らのせいだ、とかそういうのではないんです。医療の在り方そもそもに疑問を感じています。

だからといってばら撒きがすぎると、変に勘違いした乞食が群がりますが。
また、彼らの年金を頼りにする家族も他責がすぎるのでは、と思います。

もっと、子どもを安心して育てる未来へ向けてだとか効果的に使える方法があるのではないか?

だからこそ、私は日本の医療制度や、給料の低さ、社会保険料の使われ方、政治のあり方に疑問を持っています。

それについて海外に来て考え始めるのは遅すぎるかもしれませんが。

日本から離れてみたからこそ気づけたこともありますし、日本で活躍する人々の姿を見ることができたのは大きな収穫です。

今、看護師に戻ったとしても、これまでとは違う視点で、より良いケアを提供できると感じています。そう思えるようになったのは、ニュージーランドでの経験があったからこそです。


そして、パートナーどうするんかい!ってなりますよね。

実は、彼のほうが日本に住みたがっているんです。まさに「ないものねだり」ですね。(笑)

私は自然がたくさんある所に魅力を感じ、彼はとんでもなく便利な場所に惹かれる。

彼は私よりも年下なので、彼がいま抱えている人生の悩みや希望もよく理解しています。

家が欲しいと強く思っている彼は、日本の家の安さを見て、ニュージーランドの不動産価格に絶望しているようです。(笑)

確かに、普通の人が買うには海外の物件は高すぎますよね。


話が脱線しましたが、猫田は日本が大好きだ!ということです。
ニュージーランドも好きですよ!では、今日もありがとうございます!!

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