私なりの生タヒ
こんばんは, pyt-314です. さてさて, なんとか発表を終えてきましたがこれからもまた続きます. あと最近何故かpythonの書き心地が悪く感じるようになってきました. ついでにラプラス変換での方程式にも拒絶反応が出ることがあります. どうなってるんだってばよ…
とまあそんなことはさておき, 本日は思春期を経験したことがある人ならば一度は通過したであろう生タヒについての思考を書きます. とはいえここに書くのはほとんど中学時代に考えていたものなのですが…
まず, そもそもです. なぜ生とタヒの区別をつける必要があるのでしょうか. 根本的には, 私たちは観測している世界で閉じているため, その中で完結するような設計にしなければ, そんなこと言われたって正しいかどうか判断のしようがないだろ! と某カント氏に突っ込まれてしまいます.
まあこのくだりはいいとして, 私は生タヒをエネルギーの入出状態に分けて定義していると表現すればよいのではないかと考えています. 正当性とかはいったん与えないでおきましょうか, 具体例を考えれば伝わってくれると思っているので. このエネルギーの入出状態, とりわけ出状態について着目すると, 生命は行動として繁殖をしようとする生命体のみが生き残る(繁殖しようとしないものは繁殖しないので消失する), つまり生(性)を前提として考えていく必要性が生じます. この時に, たまに考えるような, "生きる意味ってなんだろうな~"って疑問を思い出してみて下さい. そうです, 人に生きている意味はありません. 自分以外の視点は物質に従うならば根本的に知ることができません. そんなことから絶対的な概念が私たちの肉体に直接的に観測可能な情報には含まれようがないことも分かるでしょう. 生きる意味を探している人がいたら私のこの思考では生きる意味なんて無いんだぞとはっきり言っておきます. というか, 生きる意味を考えるという行為自体現実世界での利益みたいなものを考える分には無駄です. しかし, 勘違いすべきでないのは, 生きる意味がないからといってタヒぬことに何か特別な意味があるわけでもありません. というか今までの認識をすべてパーにするという点ではそちらの方が無駄とも言えます. つまり私がたどり着いた結論は, 結局は自己満足で完結すれば最強ということです. 下手に合理性にこだわるのも, 得る認識の面では少々悪影響です. 結局私は認識の構成で遊ぶ道を選びました. 普段から変な戯言を書いているのはこういうことです. 私は小学校低学年の時にいじめられかけたらしいのですが, 気が付きませんでしたし.
ちなみに途中で絶対的な概念を肉体で観測することは不可能と書きましたが, 厳密に書けば正しいかどうかわからないということです. 霊的なこととか, 人間に観測できないものを扱って世界を記述することは, ある種学術界ではタブーになっているように思えますが, 先述のことに従えば通説とされているものに対しても同じ現象が起こりますのでこの行為にはある種の破綻を感じます. あくまで世界の記述とするならば, 私は実際にそうかどうなのかはさておき記述をうまくできる仮定なら許そうという立場をとっているのもこういうことです.
ということで本日は以上. 途中からちゃんと書くのをあきらめてましたが, はい. 許してください. 今晩もお疲れさまでした.