ある人物の回顧録 3

先に述べていたことの結果は, いまちょうど実験中なので, 少々の間待っていてほしい. なにせ私が使っているのはまるで化石のような計算資源なのだ. APIもすべて自作だが, おかげで作業はミスなく進む. 仕様がよくわかっている状態での作業は非常にやりやすい. まあこんなことはさておき, このページには周囲の状況をより細かく書いてみようとする.
まず, 前提として彼らはPITにより対人間(たいじんかん として書いた.)の情報伝達の精度が大幅に高まった. その他, 任意の現象をお互いに投影しあうようなことも可能になった. いわゆる一昔前の”テレパシー”と呼ばれるような可能になり, さらに互換(五感)システム利用者利用者に限定すれば, 極端な表現を行えば世界の書き換えが可能になるということは先に述べてある通りだ. 万人に共通する変化の根源はここであった. 次は変化の結果について述べる. まず詳細な例として, わたしが名乗っている学者の作業についてだ. 先に述べた通り, 学者には明確な分類が存在しない. 読者が読むころには, 現在存在する学者の作業もかなり廃れるだろうが, 多分なにか本来他の作業に分類されるべき作業を, 学者を名乗っているだろう. おっと, 今がいつなのかを述べるのを忘れていた. 時間という概念も大して重要ではなくなってしまった. 現在は5’14年だ. 一昔前の, 西暦という形態では, 2006年に私が生まれ, 時計がいらなくなったのは確か2016年であるのだから今は2046年か. 年の数え方が変えられたのでその話をしなければならない. 現在は社会状態をその産業革命の次数として表し, その人間の社会構造にもっぱら主眼をあてる. 5’14は第五次産業革命が起きてから14年経過ということを示す. そのようにすれば, 4’00や2’00などとした, 変革期の情報も扱いやすくなるのだ. 利点はこれだけしかない. PITにより, 変換作業は自分で行う必要がないのであろう. 話を戻そう. 研究と呼ばれていた, 表現モデルの提案作業は, 現在は機械知能が人を介さずに行っている. もちろん表現理論であるから, 検証方法は事象との整合性と他の理論と矛盾が起きないかの探索くらいだ. そして, 私のような古い人の感覚で言えば膨大な量の理論が提案される. それに対して, 社会, 特にセントラルでは機械知能と人が新たなシステムを開発するために表現理論をもとにして実装が行われる. この理論と実装の間に, なぜだかわからないのだが隔たりがあるようだ. わからないとは言ったものの見当はついている. 知性の喪失とでも表現しよう. きっと知能は残っていると願いたい. しかし, 考える習慣は諸々が消え失せてしまった. そして, 簡単に思い出すこともできなくなってしまったように見える. 要因はそれだけではない. 機械知能が, ある種の信念に囚われていなさすぎる, とも書けるだろう. それゆえに試行錯誤でどうにかなることをすぐに捨てているように見える. 彼らには彼らの好きな価値を使ってそれを伝えても, 残念ながら通じなかった. まさに先に述べた人の根本だ. まあ, これも私の信念ではあるが.
まるで半世紀前に建てられたコンクリートの建造物の住人だ.
まあ, それは表現理論を採用している限り理論にも起こりえることだ. 自然と認めて, 自然と改めていくほか手段はない. それまでにかかる時間は, 必要犠牲だ. 実験場と同じだ. もしもこれを読む人がいれば, 人が変わるのには時間がかかる, と伝えておく. これもすでに述べていた通りのことだ. この文章に妙な不安定感を覚えるかもしれないが, それが私と社会を含めた現状だ. かなり話が逸れてしまった. いままで学者を例にとって変化を書いてきたが, それは勿論その他の作業を行う者に対しても変わらない. あくまでも人基盤の社会を維持するために, あらゆる方面から機械知能に介入している. というよりも補正をかけて乖離しないようにしていると表現する. この作業をセントラルに人が集まってするのだ. 言葉が出ない, という言葉しか出ない. 教育も大した意味を成していない. よくここまで持ったものだ. この言葉が通じるものがこれからも存在すると願おう.

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