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うつ病の社会復帰への恐怖書き殴り
私はうつ病だ。
最初は適応障害だった。大学3年の終わり、母が入院を伴う手術をすることが決まった。その手続き、母が命や健康に支障をきたす可能性への恐怖、自分の将来のための国家資格受験、卒論、就活、全てに追われていた。
最初は食欲がなくなった。次に眠れなくなり、風呂に入るのすら何時間もかけるようになって、やがて簡単な算数ができなくなった。
その頃には大学4年目。母の手術はなんとか無事に終わった。経過もよく、私の肩の荷はほんの少し減った。でもそこから雪崩れ込むようにやってくる他の物事からは逃げられない。
大学に行く途中の電車で何度も飛び込もうと思った。
でも昔読んだ小説「完全自殺マニュアル」などに電車での轢死でどれほど遺族に迷惑がかかるか、肉片を拾うことになる電車の会社勤務の人がどれほど辛いかを読んでいた。結局実行に移せず、1人途中で電車を降りてホームのトイレで泣いた。
電車が怖くなった。電車の音を聞くだけで気分が悪くなり、頭の中が言い知れない焦燥感に満ち溢れ、ドアが閉まると絶え間なく頭の中で言い表しがたい恐怖がガンガンと暴れていた。
次第に動くこともできなくなった。
「なんで、どうして、できてたじゃん。みんなやってることじゃん。私だけ情けない。やらなきゃ、動かなきゃ」
脳内で自分を百万回も罵っても体は動かなかった。
大学4年の5月。母に精神科・心療内科に連れて行かれた。
1週間はお風呂に入れていなかったので母が髪を洗ってくれた。病み上がりの母に手間をかけさせる情けなさに涙が出た。
自分が情けなくて仕方なかった。もう大人なのに赤ん坊のように世話をされなければ風呂にも入れず、連れて行かれなければ病院にも行けず、大学にも行けない。死んでしまいたかった。
母がどうにかして新規予約をねじ込んでくれた病院で言われた診断は「適応障害」
大学は半年休学することになった。ゼミの教授と同じゼミの子がメールやラインを何度も送ってくれていたのに何も返せず、大学で逃げるように休学手続きだけをしてそのまま夏休みまで休んだ。卒業論文は書けたところまで教授に渡した。酷い出来だったと思う。なにせ眠れてない頭で書いたのだから酷い乱文だったはずだ。
大学を休んでいる間週一で病院に通った。薬を飲み、薬で眠り、医者に指示されるままに散歩に行き、ぼろぼろのままなんとか生活リズムを取り戻して食事をするよう努力した。
母は私が自殺しないように見ていてくれた。
一度母が私の前で泣いた。私もめちゃくちゃだったから細かいことは覚えていない。どうしてこんなことにと泣いていた気がする。
私も泣いた。母を苦しめる自分が情けなくて泣いた。こんなによくしてもらっても薬を飲んですらまともな人間に戻れない自分が憎かった。
大学が夏休みに入った。学生が少なく私が人で辛くならないうちにと教授が一度席をもうけてくれた
話し合いの結果、私は目指していた資格のひとつを諦めた。四年前期に実習・後期に概論をとることが必要な資格だったため、ここからの取得は困難だったのだ。
でも夏休みのうちに教授が卒論作成に付き合ってくれることにはなった。
メンタルを壊してから文章を読むのが著しく難しかったので、すこしずつ文献や先行研究を読み、分析をして、ぽろぽろと穴空きながらも文章をつくった。教授は私のめちゃくちゃな文章を確認しながら時に意味が通るよう治してくれた。
迷惑をかけていた。家に帰ってからずっと泣いていた。
夏休みがあけて復学した。半期遅れだけど来年の前期も込みでどうにか卒業しようと教務の人と頭を突き合わせて無理のない予定を組んだ。
電車には変わらず乗れなかったが、ギリギリ送迎で行ける範囲だったので家族が送迎してくれた。なんとしても単位を取って卒業しなければとぼろぼろなりに誓った。
一人、理解のない教授がいた。教授は私がはじめて復帰した授業で「返事が聞こえない。欠席ですね。」と言ってのけた。
必死で出てきて、単位を取らなければいけないのに、返事をちゃんとしたのに欠席にされた。どうしようとパニックになった。教務の人に言えばいいだろうか。担当教授に相談するべき?でも返事が聞こえる声でできなかった私のせいだから何もしてもらえない?めちゃくちゃになって全部置いて教室を飛び出した。
人目につかない寂れた屋上入り口の前でパニックのまま泣いていると担当教授や母から電話やラインが何度もかかってきた。多分パニックのまま自殺してないか恐れたのだろう。そのまま担当教授に保護されて母と帰宅した。
次の授業からは返事の声がうまく出なくても何も言われなくなった。母が抗議したのかもしれない。パニックになった私が悪いのに。でもその時の私はなんとか勉強しなきゃと必死だったのでとにかく何も言われず出席できたのが嬉しかった。
卒業論文も先生の多大な手伝いのおかげで完成し、病院の先生にもらった頓服薬などにも頼って卒論発表会も出られた。通常の授業はコマの後自由時間を挟むし、自分の授業が終われば帰ればいいが、発表会は通日のため、途中退室して休めるように差配してもらったりしてなんとかこなした。
1年間、半年は下級生に混じりながらの授業だったけどもそれなりの友達もできた。病院と学校を行き来しつつ、具合が悪くない時には電車の練習もした。辛いなりに我慢が多少できるようになった。
翌年9月、一人だけで卒業式をした。担当教授と主任教授に卒業証書をもらい、門の前で写真を撮って帰った。
卒業後 バイトする
その後半年は国家試験の勉強をするもあえなく落ちた。働こうと思った。
適当に目に留まった求人に応募し、週に2、3日からのアルバイトをした。通院は続けて、休める時間は泥のように眠った。
店長はいい人だった。慣れたら日を増やさせてもらい、時間ものばしてフルタイムで働けるようになった。忙しいなりに穏やかで、いろんなことを教えてもらって、パートタイム社員まで頑張った。
店長が転勤になったのはそのすぐ後だった。新しい店長は自分が最初に持っていた店が大事で、私の店舗にはあまり興味もなく、月に一度来るかどうか。
私ともう一人のパート社員で無理やり店を回しているようなものだった。
無理だな、と思った。新しい仕事を探し始め、エージェントさんに相談して一件の面接に合格した。
猶予を見て入社日を決め、エリアマネージャーに転職と退社を告げた。同時にもう一人のパート社員さんも退社することに決めたと知った。
粛々と退社し、新しい会社へ。
契約社員 同僚との軋轢 そしてうつ病へ
新しい会社は中小企業だった。詳しいことは言えないが、そこそこの給料でそこそこの待遇で雇ってもらった。
私なりに一生懸命働いていた。コロナ禍の真っ只中だったこともあり、入社当時は通常業務ではなかった。
同僚の一人に、ちょっと合わないな、と感じる人がいた。いつも家族にトラブルを抱えていて、精神疾患に対する差別的な言葉を口にする人だった。
一年ほどはよかった。別の同僚がその人のお気に入りで、私は程よく放置されていたので。
問題は別の同僚がやめた後だった。その人が私の悪口を他のパートさんに言っているのが耳に入るようになった。上司にこっそり相談して、それとなく離してもらえるようになった。
手遅れだった。だんだんその同僚の周囲の人が私を悪意で見るようになり、ちょっとしたことでさらに悪口を言われる悪循環。
きっと私が悪い部分もあった。私がその人の気に触れたからいけなかったんだ。言い聞かせてもどんどん人が怖くなっていく。
また食事が取れなくなった。
誤魔化すように野菜ジュースでカロリーを取りながら配置転換の希望を出した。病院に通う頻度が増えた。眠れなくなった。
またあの時みたいになりたくない、嫌だ、嫌だ、働かないと働かないと働かないと!!!!!!!
脳内はずっとそう騒いでいた。
薬が増えた。
多分、自分では一生懸命だったけど、挙動がおかしくなっていたかもしれない。
正直に言うとこの時期のことをほとんど覚えていない。
薬をつかってもまともな睡眠がとれなくなった
職場で突然涙が出るのは2度3度じゃなかった。唇を噛んで必死に堪えた。上司はこんなに良くしてくれてる、配慮して、転換も考慮されて、恵まれてる。頑張らないといけない。頑張らないと。
まだ優しいパートさんのうちの1人が人目を偲んで優しく声をかけてくれることすらあった。笑顔で大丈夫ですと返した。
上司が最近の調子は大丈夫かと声をかけてくれた。笑顔で大丈夫ですと答えた。
ある日、終業後に行った病院で「もう休職しなさい。明日からもういかないで。診断書書くからね。」と言われた。
うつ病の診断が降りた。
それから
休職が決まって、上司に連絡して、あっという間に私なしのシフトが組み直された。
もう一度ぼろぼろのまま薬を飲んでカウンセリングを受ける日々が始まった。
学生のころカウンセリング概論も取っていたので、自分がわざわざケアされているのがより滑稽で惨めに感じ、受ける度に自分がどんどん最低になっていくのを感じて、結局休職期間が切れた頃にカウンセリングを打ち切ってもらった。
何もかも私が悪かった。
稼いでた頃の貯金を食い潰して、実家でなんとか治療を受けながら今に至る。
家事をしたり、英語を勉強したり、治療しながら焦燥感に駆られるまま散発的にやりながらここまできた。
精神障害者手帳をもらった。精神障害二級。
でも精神障害者を雇いたいなんてところは少ないのだ。世の障害者雇用はハイスペックでなんでもできる技術持ちの障がい者と身体障害者のためにしかない。私はお呼びじゃないのだ。
社会復帰をしなければならないというのは切々と感じている。貯金ももう少ない。
病院の先生は就労移行支援施設を勧めていたが、正直に言うとそういう施設の実態がどういうものかわからなくて怖い。しかも近所にはほぼ空き施設がない。経験がないものにどんどん臆病になる。
アルバイトの求人を探した。いくつか未経験歓迎のところがある。
アルバイトなら経験があるからまだ理解できる。理解できるところから行けばいいじゃないか。でも精神を病んでいたブランクが後ろめたい。
精神障害者はどこもお呼びじゃないのだ。世の中は寛容になっているように見えて残酷だ。どうしろというんだろう。会社は寛容でも同僚が寛容でないかもしれない。寛容に見せかけて搾取されるかもしれない。
本当はもっと普通の人生を送って普通の就職をして普通に結婚して暮らしたかった。でもメンタルが悪く、就労できてもまだアルバイトでしかない人間と結婚したい人間なんていないだろう。
姉が結婚を決めたらしい。姉は普通に就職して、マッチングアプリでステキな人と出会ってゴールインする。
正反対すぎて涙が出る。
祝福したいのに私は勝手に惨めになっている。それを誰にも言えないでいる。
でも姉が結婚するまでにはなんとか職を探してまともなフリをしないといけない。アルバイトでもいいから働かないと姉が結婚先の家で変に見られるかもしれない。
必死にならなければいけない。惨めになっている暇なんてないのだ。
どんなに怖くてもなんとか働いて人並みのふりをしないといろんな人が迷惑するのだ。絶望的だ。生まれなきゃよかったなんて親の前では言えない。でも生まれなきゃよかったと思っている。
親を悲しませたくないから自殺も諦めている。ひたすらなんとかならないか、何とかできないか、足掻くしかないのだ。
世の人はなんでこんなに世界が厳しいのに普通のフリができるんだろう。きっと私と同じくらい苦しくても歯を食いしばって普通に暮らせている人もいるんだろう。私にその力を分けて欲しい。何で私はこんなに弱いんだろう。
どんなに苦しくても笑顔で元気に働くのは最低限の社会人の能力なのが恐ろしい。
みんなどうやってどんなふうに働いているんだろう。辛いことがあっても仕事が楽しいなんて本当にあるのかな。もう訳がわからなくなってきた。この文章を書き散らしながらも涙が止まらない。
普通になりたいなあ