【感謝という気持ち】#5 きのこ

きのこへ

いつもありがとう。


これまで執拗なほどにきのこ好きをアピールしてきて、さすがにみなさまのご尊顔にも苛立ちの色が見え隠れしていることをわたしはちゃんと認識してますからねー?

と言いつつ、反省するどころか今回は無謀にも全編を通してきのこに感謝を捧げようと試みておりますので、わたしのきのこトークに耳を犯されてきのこが食べられなくなった、おしりからきのこが生える夢を毎晩見るようになったなどの症状に見舞われている方は迅速かつ丁寧に画面を閉じ、今すぐ腹式呼吸を嫌になるほど繰り返したのち部屋の四隅に盛り塩をしてください。クレイジーソルトを使うとより効果的とのことです。





……おっけー?





大丈夫?




今この場所には、勇敢なるてれび戦士諸君しか残ってないってことでおっけー?


いいね??


ではようやく本題に入れるってわけなんだけど、炙り付け焼き刃(付け焼き刃の表面をバーナーでさっと炙ることでさらに臭みが増す)の知識をひけらかしては悦に浸る自慰的きのこトークをこのnoteという舞台ステージ上で繰り広げたとて、わたしがひとりで気持ちよくなっちゃうだけです。

それだけならまだしも、こんな淫裂なnoteがわんちゃんモノホンの菌類学者の方の目に留まり、胸板に負けず劣らず薄っぺらいわたしの知識が片っ端から論破し尽くされてしまったら、どうしよう!?
ただでさえわたしのメンタルはエイヒレで建てた城のごとく壊れやすいというのに!!

という懸念が頭の裏鬼門の方角あたりで渦巻いて毎晩歯を磨くことも能わず、この調子では今に総インプラントとなることを危惧したわたしは、初心に立ち返り純粋なきのこへの感謝のみを綴ることを決めました。


わたしがこうしてきのこ狂いになったきっかけってなんだったっけ?

と思い返してみると、おそらく原体験は小学3年の時分に図書室で見たきのこ図鑑だったかと思われます。

どこの出版社がどういう意図で出した図鑑だったのか、わたしのシケモク脳味噌には一切のデータが残っておりませんが、唯一はっきりと覚えているのは、それが子ども向けの図鑑であったということです。

なぜならば「菌」という漢字にルビが振られていたからですが、何よりわたしの度肝を抜き散らかしたのは、きのこ=菌であるという事実。


諸賢。


読者諸賢。


知ってました?

のどごし抜群の「なめこ」

ポン酢と合わせるためだけに生まれてきた「えのき」

占い師としての顔も持つ「しいたけ」

最も高級かつ最もえっちなカタチをした「まつたけ」


あいつらは!!全員!!!

菌なのですっっ!!!!!!!


どゆこと、!?!?!
菌ってあの病気の菌!?サルモネラ菌とかとおんなじ??きのこって!、病気なの!!?食べたら死ぬの!ねえ、これ死ぬの!!!!!!??

まさか学校の図書室が(度肝の)ヌキありのお店だったとはつゆ知らず、周章狼狽するわたしに、図鑑の中から無数のきのこたちが妖しく微笑みかけてくる気がしました。


その日以来わたしはそれこそマジックマッシュルームを喰らったかのようにきのこに取り憑かれ、来る日も来る日も頭の中はきのこでいっぱい、将来の夢は「宇宙飛行士」だったのが一夜にして「きのこ研究家」へとアクロバティックに転じ、いかに家族から呆れられようとクラスメイトからシカトされようと、それがどうしたわたしはぴのちゃん。


──そう。これこそ蓮沼PINO娘、誕生の瞬間。
エピソードゼロってわけ。


や、当時のわたしは武士じゃなかったために苗字を持つことが許されてなかったので、ただの「ぴのこ」でした。

じゃあ、そこからいかにして蓮沼PINO娘となったのか?
それを語り出すと『世紀末リーダー伝たけし!』全巻に匹敵するほどの壮大かつ緻密なストーリーが展開されてしまうので生憎ここでは筆を勃たせられないのですが、まあそのうち、釈放後にでも書くことにしましょうね。


さて、身も心もきのこに捧げたわたしですからきのこという存在すべてがありがたいわけですが、その中であえてひとつ選ぶとするなら、わたしに「好き」という感情を教えてくれたことかも!


きのこ図鑑との運命的な出会いを果たすまでのわたしといえば、好きな物事や趣味の類をまったく持たず、そもそも感情がなく、喜怒哀楽のすべてを知らず、表情の変化にも乏しいフォッカチオ女でした。

幼稚園の同クラの女子たちが色恋にうつつを抜かす中、わたしは男の子にも女の子にも興味を持たず、年長さんの頃ほんの一瞬『テレタビーズ』のティンキーウィンキーと男女の関係になったものの、それはあくまで年長さんたるもの彼氏彼女の一人や二人持たねばならないという周囲からの同調圧力に屈した結果でしかなく、テレタビーズの主食であるタビーカスタードが排泄音とともに供給されるのが不快という理由から破局、以来恋愛を含め、「好き」とは無縁の日々を送り散らかしてきました。


誰かを、何かを、本気で好きになったことが、わたしにはなかったのです。 


たぶんなんですけど、全人類の頭または心(頭と心を同一視するか否かみたいな話はまたこんどね?)に、「好き」って感情は先天的に備わってるはず。
それは全人類共通、天は人の上に人を造らずで、じゃあ好きなものがたくさんある人と世の中の何にも関心がない人の違いはどこで生じるかって言ったら、どうもその「好き」を収めてるロッカーの扉が、開きやすい人がいる一方で超頑丈な人もいるみたい。
好きって気持ちは人が人らしく生きていくために必要な、すごく大事なものだから、そのへんに適当に放り出しておくわけにはいかなくてちゃんとロッカーに入れとく必要があるんだけど、人によっては鍵がぶっ壊れてて目に映る新しいもの見境なく好きになってしまう人がいます。
一方でかつてのわたしのように、本当に鍵穴にぴったり嵌る鍵が見つからなきゃ一向に開かないような人もいます。

わたしの場合は、その鍵というのがきのこだった。

鍵は絶対どこかにはあるんだけど、それにいつ出会えるかっていうのは、まあ結局「運」ですわな。

大谷翔平選手もマンダラチャートに運のこと書いてたけど、ほんとに運とかタイミングとかってめっちゃ大事で。
ほんのちょっと、何かがズレただけで、わたしはあの日きのこ図鑑には出会ってなかったかもしれないし、図書室にすら行ってなかったかもしれないし、ティンキーウィンキーじゃなくてポーと付き合ってたかもしれない。

それも、何が鍵になるかもわからないから余計に厄介。

例えばもしきのこ図鑑よりも先にNARUTOを読んでいたら、NARUTOがわたしの鍵になってたのかも。
でも、きのこのおかげで好きって気持ちを知れたからこそNARUTOを読んで「面白い!!好き!!!」ってなれたのかも。
それはもうifのマルチバースの話だから、ドクター・ストレンジに6千万の可能性を見てもらわなきゃわかりっこない。

いずれにしてもきのことの出会いがなければ、今頃わたしは、VIOの意味さえ知らないような肥溜めの愚妹として一生を終えていたことでしょう。


きのこへ

わたしの「好き」を開いてくれてありがとう!

今回はこれでおしまいです〜〜〜❣️🍄

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