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【谷根千迷宮 古書キタン(仮)】_02
(続き)
第二章:神宮寺との邂逅
夜の根津神社は、昼間の穏やかな表情を脱ぎ捨て、異界への入り口のような様相を呈していた。朱塗りの鳥居が月明かりに浮かび上がり、境内には、
古い祈りの跡が漂っているような気配があった。
私は境内の石畳を、足音を忍ばせるように歩いていた。言の葉堂の老人から聞いた「儀式」の言葉が、心の中で反響する。この静謐な空間の何処かで、秘められた祭事が行われているのかもしれない――その想像だけで、背筋に快い戦慄が走った。
「こんな時間に、参拝ですか?」
突然の声に、私は息を呑んだ。振り返ると、月光に照らされた男の姿があった。端正な顔立ちに秘められた意志の強さ。そして、どこか妖しい色気すら漂わせる瞳。三十代後半だろうか、ゆるぎない存在感を纏った男性が、私をじっと見つめていた。
「いいえ、私は...」言葉を探しながら、名刺を取り出す。
「フリーライターの水鏡と申します。この辺りの文化について取材を...」
「神宮寺です」
彼は私の言葉を遮るように名乗った。
その声音には、不思議な説得力があった。
「神宮寺翔。この神社の禰宜を務めています」
差し出された手を握った瞬間、私の体を電流が走り抜けた。
大きく温かな手のひらが、私の小さな手を包み込む。その接触は、必要以上に長く続いたような気がした。
「水鏡さん」彼は私の手を離さずに言った。
「あなたが探しているのは、単なる取材ネタではないでしょう?」
その問いかけに、私は言葉を失った。
まるで私の心の奥底を覗き込まれているような感覚。
「社務所でお話しませんか」
それは誘いというより、運命的な宣告のように響いた。
社務所の中は、現世とは切り離された空気が漂っていた。
障子越しに射す月明かりが、神宮寺の横顔を浮かび上がらせる。
「実は...」私は躊躇いながらも、奥早稲田文子からの依頼と、言の葉堂での出来事を語り始めた。「この土地に伝わる、ある特別な儀式について...」
「豊穣祭のことですか」
神宮寺の声が、暗がりに響く。
「その儀式は、確かにここで行われます」彼は月明かりに照らされた庭を見つめながら続けた。
「しかし、それは通常の祭事とは全く異なる性質のものです」
「どういう...」
「選ばれた男女による、神聖な交わりの儀式」
その言葉に、私の体の奥底が熱く疼いた。
「今宵、満月の夜に執り行われる」神宮寺は私をじっと見つめた。
「あなたも、その儀式を見たいと望んでいる」
それは質問ではなく、断定だった。
「お願いします」私は震える声で懇願した。
「その儀式に、私を...」
神宮寺は長い沈黙の後、ゆっくりと頷いた。
「しかし、一つ条件があります」彼の声が低く響く。
「儀式に参加する者は、すべてを受け入れなければならない。
そして、決して口外してはならない」
「はい...」
答える私の声は、期待と不安が混ざり合っていた。
「では、午後十一時に、ここへ」神宮寺は立ち上がりながら言った。
「そして...」
彼は私の耳元で囁いた。
「純白の着物を用意してください」
社務所を後にする私の足取りは、不思議なほど軽かった。
夜風が肌を撫でるたびに、これから始まる秘められた儀式への期待が、全身を震わせる。
そう、この身体は既に覚悟を決めていた。この谷根千の地に伝わる禁断の儀式を、この肌で感じ取るために。そして、その先に待ち受ける、未知なる悦びへと身を投じるために。
月が雲間から姿を現し、私の影を境内に長く引き伸ばしていた。
(続く)
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