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闘病記(69) 声



 びっくりした。

 トイレに行こうと思って上半身を起こしたところ、体右側の余りの痛みにバランスを崩してしまった。(これはよくある。)すかさず右手をついて体を支えた。つもりだった。
 しかし右手と右腕は、エナジーゼリーで満たされたバスタブの中をかき回すような感覚を味わっただけで、どこにも着地しなかった。
 後は何が起こったかよくわからないのだが、布団のそばに置いてあったテーブルをなぎ倒しながら体が横転していた。
 いつものようにヘルメットをかぶっていてよかった。

 自分の右半身は、切りつけた傷口を開いてオキシドールを流し込むような鋭い痛みが、四六時中体の内側から湧き上がって来る。中枢神経とやらのダメージが原因らしい。だが、体の外側からの刺激をほとんど感じることができない。感覚神経とやらにダメージがあるらしい。(「とやら」と書いたのは、無関心からではない。脳や神経、痛みなどについてはまだまだ知られていないことがたくさんあり、お医者様や療法士の皆様も断言できないことがたくさんあるようなので…。) そんなわけで、怪我をしても、それを察知する能力が著しく低い。
 「怪我をしても、転倒してもそれほど痛くない。」ということは、自分の場合、良くない方向へ作用した。「まぁ別にこけてもいいか…。たいして痛みもないし、特に怪我もしないしな。」と思い始めたのだ。
 完全な勘違い。それまでただ運が良かったと言うだけなのに…。
 ある日、屋内で移動しようとして歩き始めた瞬間、後ろ側に吹っ飛んだ。
 歩き始めようとしたときに振り返ってリモコンか何かのスイッチを押した後、無意識のうちに歩き始めようとしたのだ。健常者のごとく。
 いつもは適度に緊張しながら左足から歩き始めるところだが、その時は右足からぞんざいな感じで歩き始めたのがいけなかった。
 格闘ゲームのキャラクターか、はたまたワイヤーアクションかといった感じの見事な飛びっぷりだったと思う。尾てい骨と後頭部をしたたかに打った。
 それ以来、「移動しよう。」と思ったらすぐに、ヘルメットかぶるようにしている。屋内では自転車用のものを、屋外では帽子に見えるヘルメットをかぶる。
 また、リハビリで屋外の歩行訓練をする時には、ライダー用プロテクター(バイクに乗るときに着用するもの)を身に付けるようにしている。

 さてさて。ひっくり返したテーブルと氷水の待つ部屋へと戻ろう。

 横転した体を立て直し、明け方特有の薄闇の中に座り込んだまましばらく呆然とした。
明かりをつけたくなかった。
億劫だった。全てが。

 痛みに支配されて久しい右半身が、ブスブスと音を立てながら蒸気を放ち、色が変わっているかもしれないなどと妙なことを考えたりした。

「テーブルの上には、ほとんど何も置いてないぞ。」「こういうこともあろうかと、タンブラーはステンレス製で蓋付きのものにしておいた。ひょっとすると水がこぼれるには至っていないかもしれないぜ。」「とりあえずトイレには行かないとな。」
 どこからかそんな声が聞こえて、仕方なく明かりをつけた。

 いつもと変わらず優しさが足りないというか、写実第一主義というか、まぁそんな感じの蛍光灯の白い光。照らし出された「現場」は、期待を大いに裏切るものだった。
 タンブラーと蓋は、ロケット発射のプロセスなら拍手が起こるであろうほどに見事に分離をしていた。
当然、中の水と氷は床の上に撒かれていたが、その量は思い描いていたよりはるかに多かった。タンブラーに加えて、飲みかけていた水の大きなペットボトルも、緩んでいたキャップが外れて、思いの丈をぶつけるかのように水を撒いていた。
 「これじゃ部屋の外に出られない。トイレに行けないぞ。いくらこの状況とは言え、漏らしてしまって『水です』は通用すまい。」と重い腰を上げた。(あくまでも気持ちの意味で。実際に腰を上げて立つことはできないので。)
 作業を始めてみると、熱帯夜の明け方、乾き切ったタオルが飲み干すように水を吸い取って、左手の中で冷たく重くなっていくことが楽しく、鼻唄を1曲歌い終える頃にはすべての水と氷を拭きとり終えた。
 と、そんなことがある訳がなく(笑)
作業はしんどかった。
 四つ這いになって雑巾掛けをしようにもできない。目がしっかりとは見えないのでいちいち床に顔を近づけないといけない。水を含んだタオルを絞ることができない。立ち上がってスタスタ歩けないので何か道具がいることを思いついたら、その場所まで水たまりを避けながら這っていかないといけない。何よりバランスを取りづらい。

 いくつもの「できない」と「いけない」が重なった結果最終的には、あぐらをかき、膝の前20センチほどの範囲の水と氷をティッシュペーパーで吸い取り、体のそばに置いたゴミ箱に捨てては少しずつ前に進むというスタイルに落ち着いた。

 草木の緑色がまだ周囲の景色になじみ切っていない頃。鈍色の鏡のように水が張られた田圃で、人々が小さな桶に乗り、手でこいで泥だらけになりながら歓声を上げている姿を見たことがないだろうか?ニュースやバラエティー番組などで。
 あの光景から歓声、笑顔、童心などの幸せを象徴する全てを取り払って、仕上げに桶も取り去ると、今朝の自分の姿にちかくなるような気がする。
 芝居がかるつもりはないけれど、
何とも惨めだった。

 「健常な人なら数分もあれば終わらせる作業だろうなぁ。自分はこんなに時間がかかってしまっているけれど。」などと、うつむき加減に考える一方で、違う思いも去来した。折しもオリンピックが始まったばかりだったからかもしれない。

 「自分の身の回りのことをどうにかこうにか処理して、あるいはそれも難しくて一生を終える障がい者の方が、アスリートやアーティストとして才能があり、努力と結果が評価されてメディアに登場する人よりも多いんじゃないだろうか。今、こうして自分と同じようにこぼれた水を拭いている障がい者も世界中にたくさんいるかもしれないなぁ…。」そんな思いが湧き上がってきた。
「そういうお前には、音楽を作ることや、こうやって文章を書くことがあるじゃないか。」
と思ってくれる方がいるかもしれないけれど、自分には才能などない。
情熱はあるけれど。

 また、「パラリンピックの映像を使って道徳の授業をする学校の先生が、増えるかもしれないな。でもなぁ…パラリンピックに出場するような人たちが編集を施した映像に映る姿を、障がい者のイメージとして捉えられるのは違う気がするけど、どうなんだろう。」とか、

 「この季節になると、長時間のテレビ番組で障がい者と健常者の交流を捉えたドキュメンタリーや、ドラマが放映されるなぁ。あれ、自分が障がい者になってみると、また違う視点から見るようになるんだろうな。」といったような思いがふつふつと湧き上がってきた。
 ふつふつと湧き上がるに任せて考え事をしてしまったのがいけなかった。
ちゃんと左側に置くように気をつけていたゴミ箱を、ふとした拍子に右側に置いてしまった。
 感覚が薄い体の右側は、物との距離感を無意識のうちに測ることができない。例えば椅子に腰掛ける時、(ベッドから車椅子に移る時、あるいは誰かに支えてもらいながら立ち上がって椅子に座る時など)右側からアプローチすると比較的簡単に腰掛けることができる。体左側の感覚は機能しているから、椅子の右側からアプローチすると椅子との距離感がちゃんとわかるのだ。
 反対に左側から腰掛けようとすると体右側の感覚がないため椅子との距離感がわからない。また椅子に近づきすぎて太ももや腰が当たってしまっても、そのことがわからない。
 そんなわけで(加えて考え事をしていたので)、ゴミ箱と体との距離感がわからなくなり、体を少しひねったときに右側の腰がゴミ箱にあたり倒してしまった。
 ついさっきまで(わりとテンポよく)捨てていたティッシュペーパーを丸めたものが床に散らばり、「ミニチュアてるてる坊主vsピンクのゴミ箱ファーストコンタクト」の映像が目の前に広がった。
 遠くに飛んでしまったゴミ箱の蓋を拾おうと、何気なく右手を伸ばしたのがいけなかった。(またしても健常者のごとく。学習能力ゼロの私。)
 「何気なく」右半身への体重移動を制御する事などできない自分は、
ゴミ箱に向かって伸ばした右手の狙いがそれて水溜まりで滑った勢いに任せ、完全にバランスを崩した。
 氷、水、ゴミの中へヘッドスライディング。9回裏、最後の打者になってしまった背番号3桁の初老球児。
 それだけならまだよかったのだが、動かして避けていたつもりのテーブルに右のこめかみあたりを強くぶつけた。座って体を伸ばした低い姿勢から転倒したことが幸いしたのか、痛みはさほど強くはなかった。右半身とは言え、こめかみは皮膚のすぐ下に骨があるので、痛みを感じやすい。
「ってーなー。」 
みたいな(多分もう少し品がない)言葉とともに、こめかみあたりに触れて、腫れや出血がないか確かめた。
すると、右目の目尻からつーっと1滴の涙が頬を滑った。音楽記号のように、徐々に感触が弱くなって消えた涙の筋を軽く指で擦った。
「なんでこうやって痛い方の目からだけ出るのかな。謎だな。」と思っていたら、両方の目の視界が滲んだ。

「泣いてみる?」

 聞こえたように思えたし、額のあたりで音の波を感じたような気もした。胸から立ち上る言葉の蒸気を吸い込んだような気持ちにもなった。

「辛いこと、悔しいこと、失うことばかりだったのにちゃんと泣いてないでしょ。立てるようになって、嬉しくて涙を流した事はあったけど…。辛さや悔しさに泣くところは見たことがないわ。」

 どこかで聞いたような、初めて聞くような。木管楽器の響きを思い出させる、丸みを帯びて落ち着いた声。女性だった。
 脳出血で生死の境をさまよって以来、スピリチュアルな事象やそれを語る人々に寛容になった自分は、自身が体験している時間を、少し離れたところから眺めていた。
「まぁ、こんなこともあるだろう。確かに自分は泣いてないし…。
だからと言って心の中で泣き濡れていたわけでもないんだよなぁ。
 できていたことが全くできなくなったり、大切なものをなくしたり、抱き続けていた希望が絶望に変わったり。
そういうことがあまりにもいっぺんに起こったから、嵐の中でなすすべもなく座り込んでいるような状態だった。泣くタイミングを完全に逸してしまったなぁ…。」
そんな気持ちと共に、発病してから今日までの日々を振り返った。不思議なことに、ターニングポイントとなった出来事をずらりと掲示した光景が、頭の中に浮かんだ。
それらは選挙ポスターの掲示板のようだった。カラフルと言うよりも爽やかな色遣いで、どれも同じに見えて、1つとして同じものがなかった。

「ターニングポイントと言っても、ほとんどがよろしくない方向へとターンした自分の場合、色はモノクロでよかったのにな…。」
などと考えながら、水拭きの作業を再開した。
 また両眼が滲んで、目の前の光景が解像度の低い蜃気楼になった。
「え?なんで?」
少しあたふたしたが、溢れて流れ落ちるに任せるしかなかった。左手は床の氷水をティッシュで集めていてびしょびしょだったし、右手で目に触る事はできない。目の位置、そして触れるための指の動き、その適切な強さがわからないからだ。右手で自分の目を触ろうとなどしたら、99%の確率で目を強く突いてしまう。
しばらくフリーズした後、

「よし。泣いてみよう。」

なんだか妙な決心をしたのだった。

『泣くことで心が浄化されると言う話を聞いたことがある。涙は心の汗だと言う歌や、ドラマのセリフもあるし。涙の数だけ強くなれる。という歌も素敵な歌だったな。』 
といったピュアな?心の後ろ盾があったからではない。
残念ながら。

「もしかすると、さっきの素敵な女性の声がもう一度聞こえてくるかもしれない。さらにもしかすると、姿が見えて『泣きなさい。テツ◯ウ』みたいな感じになるやもしれん。」
と言う阿呆で邪なことを考えてしまったからだ。嘘っぽい話だが嘘ではない。優しく癒されながら褒めて欲しかった。
「あれから5年間涙も見せずによく頑張ったのねテツ◯ウ。」
みたいな感じで。女性はメー◯ルになっているが初恋の女性なのでそこは仕方がない。
やり切れない夜、というか明け方だった。

 「さぁ、泣こう。」と決心した矢先、涙をはるかに凌駕する大きな感覚に体を包まれた。そう、それは

「尿意」

 元をたどれば自分はトイレに行きたくて目が覚めたのだった。それから小一時間の時間が経っていた。
頭の中は「泣きな〜さい。」の感じになってはいたが泣いている場合ではなかった。
漏らすわけにはいかない。断じて。
心の中で
「やばいやばいやばいやばいよ。」
と繰り返しながら、部屋の外にある鉄棒を掴んで立ち上がった。
消防隊員やレスキュー隊の方々が鉄棒を颯爽と滑り降り、素早く任務に就くシーンを見たことがある人も多いと思う。
あの間逆。
歩けない足で鉄棒の下まで這っていき、力が入る方の左腕に全力を込めて、鉄棒を引き寄せるようにゆっくりと立ち上がる。そして近くに置いた歩行器に片手をかけ、慎重に距離をつめて安定する位置につく。
後はガラガラと歩行器を押してトイレに行けばいいのだが、体調が悪い時は右半身に全く感覚がなく、ガラガラと押している途中で転倒することもある。自分にとって、夜中にトイレに行くと言う事は結構な大事なのだ。

 そんな感じでトイレに行き、無事に用を足しまたガラガラと歩いて帰る頃には、泣いてみようと言う気持ちは空気が抜けた風船になっていた。イベントの後片付けの時に目にする、少しかわいそうな風船。

 部屋に戻るまでに通る台所の窓から明るい日差しが差し込んでいた。日差しの明るさが作り出す、細長い三角形の輪郭が、
「夏なんだよ。わかる?おっさん。」
と言っているようだった。

「こう明るくては、あの声の主がもう一度声を聞かせてくれると言う事はあるまい。よもや、姿を見せるなど絶対にない。昔話とかで、他の人には見えない誰かに思いを寄せて、身をやつす話があるけれど、自分は案外そんなタイプかもしれんぞ。まぁ、それもよかろう。」

そう思いながら、
駄目男はガラガラと歩行器を押すのだった。







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