幸福日和 #059「優しさに触れてゆく」
優しさは与えることができる、
そして受け取ることもできる。
でもそれ以上に、
「触れてゆく」ものなのだと思うんです。
たとえ相手が知らない人でも、
言葉が通じない人同士であっても、
そこに人々の営みがある限り、
日常には、たくさんの優しさで溢れている。
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数年前の話です。
パリに滞在していたころ、
毎朝一杯のコーヒーのために
セーヌ川近くのカフェテラスに通っていたことがありました。
川の水面を撫でた心地よい風が吹き抜けるテラスから、
穏やかな街の営みをなんとなく眺める、
ただそれだけの時間を過ごしていたんです。
そんな時、
ふと、テラスから眺める景色の中に、
人々の優しさが溢れていることに気がついた。
例えば、通りですれ違う二人の老人、
おそらく面識のない者同士なのだろうけれど、
ゆっくり、すれ違いざまに互いの目を優しく見て
体を労わるように軽い会釈をしそれぞれの道へゆく。
また、少し目線をそらして、
橋のほうに目をやると、
路上でヴァイオリンを演奏している若者がいるんですね。
このテラスにも微かにその音色が届いてくる。
演奏に耳を傾けている一人の女性と
演奏する男子は、おそらく知らない者同士。
女性はしばらくその演奏を聞いた後、
彼の足元にお礼のコインをそっと置いて立ち去り、
彼も軽く会釈をしながら、その想いを味わうように演奏を続ける。
その場を離れる女性の表情は、
何か大切なことを思い出したかのような
明るく透き通ったものでした。
今度は、目線をこのカフェテラスに戻してみる。
僕の隣の席では、テーブルに落ちた雫を、丁寧にハンカチで拭って
次の客にその席を譲ろうとする紳士。
そうした数々の優しさが、
日常の風景の中に溢れていることに気がついたんです。
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思い返してみれば、
そうした日常の優しさに触れ、
僕は何度か救われました。
平日の昼間にもかかわらず、
スーツ姿で山手線を何周も回っていた時がありました。
時間を潰していたわけでも、
寝過ごしていたわけでもありません。
ただただ自分の歩んでいる道の先が見えずに、
放心しながら迷いの環状線を何度も何度も
なぞっていたのだと思うんです。
駅のアナウンスも、
乗客の会話も耳に入ってはこなかったし、
それほどに思いつめていた。
そんな電車内で
ふと、斜め向かいに視線を向けると、
小学生くらいの幼い男の子が、
おばあさんに席を譲っていたんですね。
おそらくさっきまで、
そこで行儀よく座って勉強をしていたのだと思うんです。
片手に教科書を、左手に自分の体の大きさほどのカバンを持って
一生懸命に席を譲ろうとしていた。
そんな幼き少年の大人をいたわる姿に胸を打たれ、
大人であるはずの自分の余裕のなさに気持ちを改めた記憶があります。
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日常をどのように眺めてゆけるか、
時々そのようなことを考えます。
人は時に優しさを求め、
また、ある時に思うように受け取れず、
迷いの中に彷徨うことがあります。
そんな時こそ、
こちら側の目線を変えてみるんです。
すると、
不思議なことに人の温かい部分はいくらでも見えてくる。
もっと多くの優しさに触れて生きたい。
受け取れないほどに
日常は優しさで溢れているのですから。