醜悪な歴史修正/歪曲映画「ゲバルトの杜」徹底批判シンポジウムに集まろう!7/6土は新宿角筈へ!!
以下檄文を附したビラを配布しています。
先日も、東大駒場寮潰しの尖兵だった石田英敬トークショー会場(渋谷ユーロスペース)前にて抗議情宣。
渋谷円山町に熱い共感が広がりました。皆様、今すぐ予約を!morihihan@gmail.comまで。https://freegaza.web.fc2.com/symposium.html
映画「ゲバルトの杜」を徹底的に論じ、批判するシンポジウムを開催する。
1972年11月8日、早大第一文学部学生・川口大三郎は早稲田大学文学部キャンパス内において、自治会を掌握、大学当局と淫靡に結託して、ほぼ一元的に支配していた革マル派の学生によって拉致され、8時間にも及ぶ拷問とリンチの果てに虐殺された。川口を、革マル派の敵対する中核派の「スパイ」と誤認しての出来事だった。したがって、これはいわゆる「内ゲバ」ではないし、そもそも「内ゲバ」とは、きわめて問題含みの概念である。この事件に接した早大万余の学生は虐殺に抗議し、革マル派の支配を打破すべく決起した。これが、一年以上にわたって展開された「早稲田解放闘争」である。
当時の日本は、「1968年の革命」の後期にあったが、全国での闘争はまだまだ持続していた。三里塚闘争であり、入管闘争であり、差別糾弾闘争であり、フェミニズムが確実に萌芽し、「障害者」解放闘争も盛んに提起されていた。早稲田では、69年春にノンセクト学生が決起して第二次早大闘争が展開された。革マル派と当局の結託によって、一旦は沈静化された早大全共闘運動であったが、その潜勢力と提起された問題は持続していたのである。1970年10月には、第二文学部学生で、「帰化」朝鮮人二世であった山村(梁)政明が、革マル派の支配と弾圧に抗議して焼身自殺している。川口大三郎も、当時の「68年」的課題であった部落差別反対闘争に関心を抱く、「ノンセクト」の学生であった。
早稲田解放闘争は、多様な傾向を持つノンセクトの学生によって担われた。それに加担してコミットする政治党派もあった。しかし一年余の闘争は、全国動員で闘争の圧殺を図る革マル派、それを支える大学当局、そして当局によって導入された国家権力と機動隊の前に、敗北を余儀なくされていった。以後、早稲田では再び、革マル派の支配体制が再建されたのである。「革マル派を背景にした『平和』」である。
1990年代、奥島孝康総長が中心となって、早稲田から革マル派が一掃されたという虚言が流布されている。映画『ゲバルトの杜』の原案となった樋田毅の『彼は早稲田で死んだ』(文春文庫)は、そうした虚言の上に立った「ノンフィクション」である。『ゲバルトの杜』も、その観点を踏襲している。
しかし、奥島が根絶しようとしたのは、革マル派の支配ではなかった。早稲田解放闘争の後も地道に活動を持続してきた、サークルを中心とするノンセクトたちの運動の基盤を解体しようとしたのである。奥島は、サークルが密集していた地下サークル部室の撤去を敢行した。これに対して、多くの早大生が決起したことは言うまでもない。2001年7月31日には、1500人余の学生が本部キャンパスを埋め、昼夜を問わず徹夜で抗議行動を行った。これは、日本学生運動史上、最後の大衆的な学園実力闘争である。同時期の、東大駒場寮廃寮反対闘争とて、これほどの盛り上がりはなかった。
以後、革マル派のみが、当局の黙認のもとに早稲田に淫靡に根を張り、川口事件以前と変わらぬ支配が、目立たぬかたちで持続している。『ゲバルトの杜』は、このような支配を肯定することで成り立っている映画なのである。それは、映画全編に横溢しているメッセージだ。この間の代島治彦監督の諸発言も、それを裏付ける。
このような大学の支配体制は、決して個別早稲田の問題ではない。全国の全ての大学が、サークルやタテカン等、学生運動の基盤を根絶やしにすることで、学生への支配と管理を巧妙に行っているのであり、それは大学のみならず、すべての社会領域に及んでいる。しかも、一方では「リベラル」を公然と謳いながら、である。映画『ゲバルトの杜』は、そのような趨勢に掉さして登場した、きわめて悪質な映画なのだ。
昨今、イスラエルのガザ侵略に対して、世界的に学生運動が、何度目かの勃興を見せている。日本においても、多少の兆候は見られる。しかし、とりわけ日本では、「気持ちは分かるし、意見を表明するのはいいが、暴力はいけない」という声に怯えつつ遂行されているように見える。何せ、「デモは暴力だ」と言った政治家がおり、それはそれで「正しい」からである。たとえば、かつてジグザグ・デモは「合法」だったが、今は「違法」なのだ。
確かに、日本のみならず世界の運動において、「暴力」の遂行に過誤はあっただろう。しかし、運動とは試行錯誤と誤謬のなかで結実していく過程にほかならない。「正しく」運動しようとすることは大切だが、それが「正しく」結実するかどうかは、運動のなかで検証されていくしかないのだ。
われわれのシンポジウムは、『ゲバルトの杜』の批判的な検証をベースにしながらも、映画、演劇、暴力、セクシュアリティー、差別と、多岐にわたっていくだろう。それは、歴史の検証だけではなく、現在の運動のありかたに及ぶはずである。
望みうる最良の、多様なパネリストを結集した。多くの方々の参加を望む。
絓秀実