醜悪な歴史修正/歪曲映画「ゲバルトの杜」を批判するコメント、名著「NAM総括」で知られる吉永剛志さんからいただきました!!

名著「NAM総括」で知られる吉永剛志さんからコメントいただきました。https://freegaza.web.fc2.com/ 熟読を!そして皆さん醜悪極まりない歴史修正/歪曲映画「ゲバルトの杜」を共に批判していきましょう!!7/6土シンポジウムにも結集を!!!https://freegaza.web.fc2.com/symposium.html 予約埋まりつつあります。今すぐ morihihan@gmail.comにご予約を!

映画『ゲバルトの杜』を批判する  吉永剛志(倉庫労働者/地域・アソシエーション研究所)

ここずっと、「内ゲバ」という言葉が、現状を結局は変えたくないためのいい口実になっている。この映画はその典型だ。「内ゲバ」と「正義の暴走」に警鐘を鳴らしているつもりだろう。が、時代錯誤でじり貧もいいところだ。真に受けたら真綿で首が絞められるようにやられていくだろう。それは何かが間違っていて、物事を直視して思考してないからだ。

川口君が殺された場所はここだったのかと、映画を見てまず思った。1972年の川口君事件は、1988年、早稲田大学一年生のころ立花隆の『中核対革マル』を読んで知っていた。しかしリンチ場所は文学部事務所の真正面の向かいの教室とは知らなかった。事務所から中庭的な通路をはさみ距離にして5メートル。川口君がリンチを受けているときも、休講かどうかなど確認している学生で、事務所とリンチ場所の教室の間はにぎわっていただろう。大学事務職員は大学事務を粛々と終え電気を消し、帰路につき、そうして隣にいた川口君は死んだ。

私は川口君が殺された20年ほど後、その場所で万葉集や古今和歌集の講義を受けた。私は、日本の美を理解できただろうか?ロシア・アヴァンギャルドやベルリン・ダダのクルト・シュヴィッターズのメルツバウについて講義も受けた。ピンとこない人もいるだろう。ざっくりいうと、ポスト・モダン建築家として著名な故・磯崎新や1983年にベストセラーになった『構造と力』が最近文庫化された浅田彰が褒めるやつだ。68年5月革命あと、69年に構想され、77年開設のポンピドゥー文化センターの初期の展覧会『パリ・モスクワ』『パリ・ベルリン』の新鮮なパースペクティヴの風(ここがネタ元である)が川口君がリンチを受けた場所にも届いていた。フランスの新批評(ヌーヴェル・クリティック)と実証主義の対立、ロラン・バルトとレーモン・ピカールの「新しい批評か、新たな詐欺か?」という論争の詳しい内実の講義も受けた。

川口君がリンチを受け、殺された場所で、68年フランス5月革命からのアカデミズム制度改革の流れの講義を受けていたということだ。一言でいうと「文化左翼」だ。懐かしくもあり、つまらなくもある。私は面白く受講もした。が、この枠を超えたいともこの頃から無意識的な衝動として思っていた。何か囲われたところで行われている。その囲われ方に川口君事件は明らかに関係がある。そして、この映画はそれが言語化・映像化できてない。

  時間をくりあげよう。私は2021年に『NAM総括』(航思社)という書籍を出版した。思想家・柄谷行人が提唱した国家と資本への対抗運動を、「文化的」にでも、趣味でもなく、社会的に公然と実名だして肯定している。生産関係ががっつりくみこまれている職場でも公認されている。それで働いている。それが対抗運動、ってやつだ。

そういう私も学生時代は、大学構内で運動など思いもよらなかった。革マル派の存在でまず社会運動など嫌になる。そして大学は専門学校の高級なもの(朝日新聞社がやっているカルチャーセンターか?)だと割り切り、出席さえすれば何とかなる場所だと思い込む。しかしこれこそ、大学、そして社会が手を汚すことなくしてすむ理想の統治体制なのではないか?川口君事件以来、異端で問題を起こしそうな人間は、まずは党派が排除し、学内の疑似平和が保たれる。現在では一見したところ党派さえいらなくなった。大学で「偏向した」「左翼的な」ビラを撒いたら、革マル派ではなく、大学教員が飛んできて、私人逮捕する。冗談を言っているのではない。20年前から早稲田大学文学部キャンパスではそうなっている。そういう事例もちゃんとある。50年前はこの映画のように革マル派が排除したが、20年前から大学教員がその役割を担うようになった。もっとも革マル派は真っ先に排除されていなくなっているわけではない。映画の冒頭でタテカンがど真ん中に出てきた文化連盟=早稲田の公認サークル連合体はまだ革マル派が隠然と仕切っている。50年前とは表と裏が逆転しただけなのかもしれない。

現在は、大学こそ、脱政治的で「価値中立」な場所の先端となっている。むろんこの大学の中では、疑似福祉空間が築かれ、多様性が尊重され、一人一人がマネージメント目線をもってクリエイティブにイノベーションを、と言われる。学生はチヤホヤされる。「お客様」だから当然だ。大学はステークホルダーと消費者としての学生が集う場となった。しかしそれはこの映画の原案の樋田毅が革マル派支配の自治会に変わって追い求めたような「自治空間」では全くない。コンビニの空間とどう変わるのか?。樋田はノスタルジーにひたらず、初心に戻り、現在、なぜそうなっているかをまず思考すべきだ。とはいえ樋田が川口君事件を扱って書籍化したのは最大限評価し、敬意をもつ。知人で調べて書籍化しようとしていたものがいたが、革マル派の妨害をおそれて(?)出版しなかった。大岩圭之助= 辻信一との対談の実現も驚いた。ちなみに辻信一はNAM会員だった。辻信一と深いつながりがある国分寺のカフェスローではさまざまなイベントがおこなわれた。

『ゲバルトの杜』は、上記のような体制の一環を補完する映画だ、と言わざるを得ない。一言でいうと「正義の暴走」はこわいね~、という感想をおこすための映画だ。断言するが、20代で、ハァハァ感心して見ていたら痛い目を見る。真綿で首を絞められるように、追い込まれていく。つまらない人生おくることになる

 そもそも「暴力」「非暴力」の区別があまりに通俗であさはかだ。この映画の通りなら、例えば、非暴力直接行動で著名な、アンジー・ゼルダ―がやってきた行動はどう位置づけられるのか?ゼルダ―は、東チモールの虐殺阻止のために英ホーク戦闘機の格納庫に侵入してコックピットをハンマーで破壊し、原子力潜水艦の実験施設も機材を湖に投げ捨て機能停止させた。いずれも無罪、約200回の逮捕歴がある(『非暴力直接行動が世界を変える』南方新社 2024)。これも「正義の暴走」なのか?

過去のノスタルジーに浸っている場合ではない。過去を語るにも、現在の現場に届く語り方があるはずだ。この映画はそういう映画ではない。

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