音と言葉とコミュニケーションと 〜#2「対話」について考えたこと
誰かと話すとき、相手によって使う言葉が変わることがある。それは意図的にではなく自然に。きっとお互いの周波数を読みあって共鳴して、そこから言葉が紡ぎ出されているのではないかと思う。
意図ををせずに美しい言葉が自分の口から紡ぎ出される時、それは相手の周波数が美しいのではないかと感じた。美しさの共鳴。そのような関係は大切にしたいと思った。そして自分もできればそういう人でありたい。
もし言葉が出ない時、何の言葉も生まれてこない時、そこにはただ空間があり、空っぽになっている自分がいる。
それは悪いこととかではなくて、ただ、空間になっている。
「私たちは空間そのもの」
空間に身を置く。その空間と一体化する。
空間の中で粒子は溶け合って1つとなる。
空間は私たちそのものだ。
そのうちに、何かがこころの琴線に引っかかり、空間の中の波が少しだけ揺れると、そこが動いて言葉が紡ぎ出される。
それは最初、音のように聞こえていて、その小さな粒子が集まって、1つの言葉になる。
最初に音が在る。
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こんばんわ、Karo.です。
今回は「対話」について最近考えたことをつらつらと...。
つい最近、とある方とSNSのDMで「対話」と称してお話をしていました。その方は多くの本を読まれていて、知識も豊富で、次元の話や愛の話、すべてはエネルギーであるという話もしていました。ですが、「ぜひ、すぐにこの人の本やYouTubeを観て欲しい」と言われて紹介されたものは、ちょっと激しめなタイトルがついたいわゆる陰謀論的なモノをアップされている人の動画でした。
んーーーー、ちょっと観る気になりません....。
ここで私のスタンスを話しておくと、世界で起きていることは様々です。私はテレビは何年も観ていませんが、テレビで言われているようなことと、隠されていると言われている様々なこと、どれもある視点からみたら正しくて、ある視点から見たら間違っている。これは3次元世界なので当たり前なのですが、つまりは起きている現象はただ現象なだけで、事実は誰にもわからない。そして真実は自分の中にしかない。と思っています。
ちょっと危険だと思うのは、YouTubeでそのような話がアップされているとき、注目をひくためにあえて刺激的なタイトルをつけている方も多いのではないかと思うのです。これは、たとえば、すごいコトあったよ!と友達に伝えたい時に、ちょっと話盛っちゃうことってあると思うんです。そういう感じ。だからその中身が事実だとしても、事実ではない成分も入っていることがあるのですよね。とくに当事者の話でないものは、事実成分が少し低いと思っています。まぁ新聞やマスコミ、テレビの情報などすべてに言えますが...。だから、そういうことも踏まえて、自分のココロで観て、自分の中の真実で情報を選んでいくという受け手側の意識がとても大切なのだと思っています。
そして、もう一度。外側には「真実」はない。と思っています。
そして、話を戻しますが、私はとても不思議に思いました。その方は、すべては愛でありエネルギーであるということを、以前からお話ししていて、何故、このような激しめな陰謀論的なものをお勧めするのか?
本当に純粋に疑問に感じて、「外側には真実は何もない。真実は自分の内側にしかないと思うのですが、そのへんはどうお考えですか?」ということを率直に聞いてみました。すると「陰謀、冒涜と言われるものの中にこそ、真実は存在すると、ある方から、学びました」というところからはじまり、私信なので引用しませんが、ほとんどの文章が賢人か著名な方の言葉で、文章の語尾に「〜らしい」とか「〜かな」とついています。それらはつまり外側から得た情報なのです。でも、私はそうではなく、その方自身がどう思うのか?どう感じているのか。というご本人の声が聞きたい...。
この会話は何度かやりとりをしました。たとえば原爆が地上爆破だったと言われても(その内容は不明なんですが)、それを追求したところで家族を亡くされた遺族の悲しみは癒えるのか?(当事者でもない人が、そのような話をしていて、それは何の目的なのか?さっぱり意味がわからない...。)それも含めて、あなたはどう思っていらっしゃるのか?と...。
とにかく「あなたの真実が聞きたいのです〜っ!」と思ったのですよね。
ですが話は常に平行線で、最後には「貴女は、何か宗教に入ってますか?」と言われました。
えええええーーーーっ!!!勧誘めいたことをされているのはこちらなのに〜?(爆笑)
でもまだ対話?は続けたいと思っています。(お返事が来れば...ですが)
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前回の記事で
「情報」という言葉がありますが、それって、これまでは時事的なこと、知識的なもの、ハウツー的なモノなどを指していたと思うのですが、本来は「情」を「報せる」のが「情報」なのではないかと思うのですよね。
つまり情動を伝えるのが、「情報」だと思うのです。
と描いたのですが、人と人が話をする時、「対話」するというのは、この「情動」を伝え合うということなのではないか、と改めて思いました。
結局、一般的な情報と言われているようなものは、ふわふわと空気に浮かぶ塵のように、そこらじゅうにたくさん漂っているのです。
私たちは普段、そのふわふわした塵をつかんで、仕事に関連する情報や日常生きていく上での必要な情報を取り入れて生きています。
でも「対話」という人と人とのコミュニケーショという場面では、その持っている塵をただ見せ合うことに、私はあまり価値を感じていないのです。
というのも実は、数年前までは自分もそうだったのです。
親しい友人との会話でも「最近こんなことがあったよ」「〇〇さんが〇〇〇〇と言っていたよ」的な現状報告と二次情報だらけで、自分がそれに対してどう思うかを伝えられない。それは自分が思っていることを表に出すのが怖かったのですよね。相手がどう思うのか、とか、受け入れられないかもしれない。とか、変に思われるかも...。間違っているかも、とかとか。とにかく自分の中心に自分がいなかったから、すべてにおいて自信がなかったのです。だから「〇〇さんがこう言っていた」とか「〜かも?」という言い方になる。でも、そうした会話をしたあとには、いつも空虚感を感じていました。私がしたかった会話はこうではない。という思いがずっとありました。これが仕事についてになると、俄然自分の意見、自分はこう思っているということが話せるのです。でも、自分自身の核には触れられない。多分、自分のココロが傷つかないように高い高い壁を立てて、守っていたのですよね。
これって卵が先か鶏が先かで、自分の気持ちを言葉にしないでいると、どんどん自信がなくなるのですよね。で、自信がないからまた言葉にできない。という無限ループになるのです。正しいも間違っているもない。本当は誰からも傷つけられることはない。自分が自分を受け入れていないだけだ、とわかってもまだモジモジしている。結局それが自分の中でしっかりと附に落ちて「もう自分を誤魔化すのはやめよう」と振り切って壁を壊すまで、ずいぶん時間がかかりました。
ちなみに、このnoteをはじめたことは、私の「ベルリンの壁崩壊」でした(笑)
そしてもう一つ、私の経験で言うと、普段仕事などでアタマばかり、思考ばかりを使って生活していると、自分の情動が鈍感になるというか、感じにくくなるような気がします。そもそもアタマの中が情報や思考でいっぱいになると、許容量を超えて自分で考えること自体もできなくなって思考停止になります。そうなると本来思考は、胸(ハート)で感じる情動とやりとりをしたいのだけれど、アタマと胸(ハート)が断絶されてしまって感情も動かなくなり、自分がどう感じているのか?自体もよくわからなくなる。ということもあると思います。
また、最初にアタマ(思考)から取り入れた知識は、アタマに留まったままになりがちで、胸(ハート)や腹(附)に落ちていきにくい気がします。アタマだけで理解しよう理解しようとすると、胸(ハート)が置き去りになってしまい、そこに止まってしまいます。気の進まない受験勉強なんかがそうかもしれませんね。勉強自体を楽しんでいたらそれはハートから吸い込んでいるので身体の中にしっかりと入ります。が、やらなければいけない。という義務感が強いと胸(ハート)に落ちていないので、アタマだけの情報のままで、それらの情報はすぐに忘れてしまいます。
多くの素晴らしい言葉や知恵を、アタマのほうから取り入れたとしても、それがアタマからハートや腹(附)に落ちて、細胞に浸透するまでは時間がかかりますが、
「こころの琴線が振れた」と感じられた言葉などは、まず最初に胸から吸い込むので、脳より先にその人自身の細胞に浸み込んでいくと思うのです。
情動はエネルギーであり、「対話」とはエネルギーの交換なのだと思います。そして、人との関わりで一番楽しいのはこのエネルギーの交換です。
そして、まったく同じ言葉でも、その背景に、その言葉に、その人の「情動」がなければ、それはただの塵であり、こころの琴線は振れません。何かが胸に滲みるという時には、必ずその人の「情動」が入っている。と思うのです。
真実は人の数ほどあるのです。人それぞれ、みんな違っていて、同じ人は一人もいないのだから、恐れずに、自分の感じた「本音」を出していくことって大切だと改めて感じました。
そして自分の気持ちがよくわからない時は、「自分の胸に聞いてみろ〜」って言葉がありますが(笑)、本当に聞いてみること、なんですよね。
ちなみに「本音」について、以前、こんな記事を描きましたが、
「本音」ってやっぱり「音」なのだと思うのです。
自分に胸に聞くとは、自分の中の「音」を丁寧に聴いてあげること。
聴こえてきたら、次にその「音」を奏でてあげること。
そうして生まれた会話は、どんな音であっても素敵な音で、たとえ意見が違ったとしてもまったく問題なくて...その本音が奏でるアンサンブルは、唯一無二の素敵で楽しい「対話」になるのでは?と思います。
ではでは、今回も読んでいただいて、どうもありがとうございました。
おやすみなさい。
こちらの記事には追記があります。