日本人が無意識に感じていた境界のない世界
こんばんわ、Kaloです。
先日、待望のチームラボに行ってまいりました。
新しくできた麻布台ヒルズのチームラボ「ボーダレス」。
あまり予備知識を入れないまま(←わざと)友人たちと行ったのですが、
予想をはるかに超えて楽しく、時間を忘れてほぼ4時間ぶっ通しで
歩き回って堪能してきました。楽しかったし、美しかった。
チームラボといえば猪子さん。
昨年こちらの記事を書いてから、時間が経っていたので、
ひさしぶりに猪子さんの出ているYouTubeをいくつか
ラジオのようにして聴きながら数日過ごしていたのですが。
その中で、10年前のTEDスピーチで話している彼の話に、改めてツボで。
(猪子さんがめちゃ若い〜♡)
この中で、日本人の視点と西洋人の視点の違いについて、
絵画や日本庭園やゲームを参考に用いて話しているのですが、
本当に納得で。
(お時間ありましたら、ぜひご覧ください)
西洋人は世界をパースで見ていて、日本人はレイヤーで捉えている。
という話なのですが、
これ、昨年、徳間書店のトークイベントでお会いしたはせくらみゆきさんも
同じことを話していて、それは言語から由来していると話しています。
もともと日本語の多くは主語がないことが多く、自他との境目が曖昧。
だから「みんな繋がっている」という空間中心の認識でモノを観ている
そうです。
海外の言語、特に英語をはじめとした子音が中心の人たちは言語構造的に
主語がはっきりしている。それは言語を扱う脳の構造がそもそも違うので
世界を自分中心、自分発信の視点で対象物のように見ている。
のだそうです。
それは具体的な感覚で言うと何が違うのか?
何かを見たときに、自分がその空間の中にいると感じるのか
外側から客観的に観ていると感じているのか。
の違いです。
なので、
そもそも日本人は世界と私には境界がなくて
英語圏の人たちは世界と私は分離して存在いる。
という言語の違いから派生する脳の構造の違いがあるそう。
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これ、改めてすごく納得したのが、
私、一昨年にエネルギーワークの講座を受けていたんですが。
講師がアメリカ人だったんです。
その講座では後半に、生命の樹のパスワークというものがあって、
自分が自分の体を出て、部屋を歩き回ってみる。とか
座っている自分を見たりする。
そこからイマジネーションの世界へ歩いて進んでいくのですが。
ぶっちゃけ、全然できない。
まず、自分の体を抜けて自分を見るとかっていう視点にならない。
感覚が全然わからなかったんですよね。
でも、ここにきて、先の話で腑に落ちました。
私は自分と空間が一体化しているからだったのか。と。
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そういえば20年くらい前だったか、
日本家屋の凄さにいたく感激したことを思い出して。
それは当時、西村佳哲さんのワークショップに参加した時に
日本は自然を家の中に招き入れている暮らしをしていて、
そのひとつの例で風鈴の話をされていて
風鈴を縁側に吊るすことで、風を「音」として招き入れ愉しんでいた。
みたいなことだったような…(うるおぼえですがw)
そう考えたら
そもそも縁側という存在自体が、外なのか内なのか?という
境界のない場所で。
そこでおしゃべりをしたり、お月見をしたり、虫の声を聞いていた。
障子や葦簀という、外の世界との境界が薄いもので仕切っていて
それはいつでも取っ払うことができる構造になっていて。
いつでも風が通り抜けるような、そんな構造。
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そういえば、私はものごころついてから20代後半まで、
実家の木造の平家住宅に住んでいて。
大家さんが植木屋さんで、裏には子供にとっては広大な森というか林がありました。
多分その住宅も大家さんが建てたものだったので、茶室ですか?みたいな不思議な低くて小さな引き戸がついていたりしたし、
縁側はなかったけれど今の大きな窓を開ければすぐに庭で、そこで近所のおばちゃんたちが話に来ていたこともあったし、
部屋の床にアリンコが列をなしていることもあったし。
なんだかのどかな風景でした。
当時は団地に住んでいる子供たちが学校でも多くて
あんな四角い箱でおなじような部屋で…こわいなぁ。って、その頃から大人になってからも思っていたけれど。
まぁ、マンションに住みはじめたら
そんなことも忘れて快適に住んでいますけれども(笑)。
それでも風が通るとか、お日様の光が部屋の奥まで届く今のマンションは
やっぱり無意識に選んでいて。
なんとなく当時から幼少期の体験にプラスして
綿々と続いてきた日本人の意識からくるDNA的なものも感じます。
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自分自身がこの世界であり空間だと感じはじめて。
息をするたびに空気が動いて、
その一息が世界を動かしている。と体感すると。
ひとつの動作、それだけでも
私の世界は動いていて変化しているのだと
そんなことをたまに感じていて、
なんだか感慨深い気持ちになって。
時間も空間もモノも人も自分も
何ひとつ分けられない
すべてがずっとずっと続いてきて
これからもずっとずっと続いていく
流れであるということを体感として感じると。
すべてはその瞬間にキラッと光る生命の一粒なのだなぁ。と。
その美しさに儚さと喜びを、ただ、感じます。
と。書いていてどこで〆るべきか
わからなくなりましたが。
今日は一日中、ふんわりと、そんな心地のいい気分でした。
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