こんにちわ、Kaloです。
最初に。
今朝、佐藤シューちひろさんのFBを読んでいて、
ああ、これは前回『6次元と5次元の狭間で4〜溶ける自我』で書きたかった内容と同じだなぁ。と思いましたのでシェアします。
さて、前回からしばし時間が空いてしまって、
この先、何を書きたかったのだったっけ?
と暫く考え、いくつか途中まで記事を書いていたのですが
なんとなく書き進まないので
今朝、瞑想で「note に何を書く?」とめずらしく具体的な質問をしてみたら「岩田慶治さんの『カミと神』267P」と言われました。
ということで、今回はその部分を引用転載しようと思います。
が その前に。
私は15年ほど前に、図書館で『木が人になり、人が木になる』
という本を借りたのが、岩田慶治さんの本との最初との出会いでした。
タイトルと本の佇まいにひかれて、何気なくそれをを借りて読んだら、
一気に引き込まれてしまい、深い深い感銘を受け、この本をずっと手元に置いておきたくなり、わざわざ買い直したくらいです。
この本ではじめてアニミズムという言葉と出会い、
自然のなかに融けこむ精霊や樹木崇拝の信仰の存在を知りました。
そしてその後、岩田慶治さんの本を何冊か購入して読んだのですが、
この本がやっぱり一番好きで、パラパラとめくっては出てきたページの文章を読んで触れる。というようなこともたまにしています。
もし図書館などで見かかることがあれば、ぜひ、お手に取っていただいのですが、私の記事でも、別の機会にまた取り上げてご紹介したいと思います。
と、いうことで、冒頭に書きました
「岩田慶治さんの『カミと神』267P」を引用しようと思います。
ちなみにこの『カミと神』という本は、数年前に古書で手に入れたものの
開封しないまま、ずっと本棚の中にありました。
なので今日、初めて開きました。
きっと今日がその日、だったのでしょう。
本を開くと
ちょうど266Pから(この記事のタイトルにもしましたが)
「カミと神の空間構造」という章が始まっていましたので、
266P-267Pまでを掲載しようと思います。
二元対立を超えたほんとうの空間がひらかれている。
生と死の世界ではなくて、生死を包む世界、
昼と夜ではなくて昼夜を包む世界。
われわれ一人ひとりが自分の生以前、
死以後の世界へ主体的に参与することが必要であって、
それなしに言葉と文字の遊戯を繰りかえすだけでは
役に立たない。
これらの言葉は、今日、私の中に響きました。
そして267Pの情景は、とても美しく感じました。
「余白は無限の背後空間でなければならない。
二元世界の一方であることを拒否するものでなければならない。」
岩田慶治さんのどの本でも、繰り返し書かれていることがあって、
それは「余白」について。その重要性。でした。
岩田慶治さんは絵を描かれる方なのですが、
描いたものの周りに現れ出てくる余白について、
それがむしろ主役でさえある。と書いていました。
読んでいた当時はその意味がさっぱりわからなかったのですが、
今になって、やっと”感じるように”なりました。
見えないところにこそ、すべてがあり、あらゆるすべてが充満している。
「何もなくてすべてがある」ということ。
波であり、粒でありながら、繰り返される無限の広がり。
というようなことを。
これはアタマでは理解ができないこと。だったんですね。
そして267P以降に、カミと神のあいだのアニミズム、シャーマニズム、多神教、一神教について、カミ以前と神以降について、「家(の窓)」という形でその違いを書かれていたのが面白かったので、それも転載しておきます。
ではでは、今日はここまでで。
しばしこの『カミと神』を読もうと思います。
さらに気がついたことが出てきたら、追記するか、
また記事にしますね。