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6次元と5次元の狭間で5〜カミと神の空間構造

こんにちわ、Kaloです。

最初に。
今朝、佐藤シューちひろさんのFBを読んでいて、
ああ、これは前回6次元と5次元の狭間で4〜溶ける自我で書きたかった内容と同じだなぁ。と思いましたのでシェアします。

ダークなエネルギーは、祓うのではなく、調和させる方向で扱うと、安全につきあうことができます。戦えば攻撃を引きつけますが、戦うスタンスを取らなければ、攻撃を引きつけることはないからです。
ダークなエネルギーは、しかるべきやり方で調和させると、反転してものすごくポジティブな力になるのがわかると思います。
すべては愛だということが言われますが、それが一番よくわかるのは、ダークなエネルギーを調和させたときです。
ダークなエネルギーも、調和させれば愛に変わります。

佐藤シューちひろさんのFBより




さて、前回からしばし時間が空いてしまって、
この先、何を書きたかったのだったっけ?
と暫く考え、いくつか途中まで記事を書いていたのですが
なんとなく書き進まないので
今朝、瞑想で「note  に何を書く?」とめずらしく具体的な質問をしてみたら「岩田慶治さんの『カミと神』267P」と言われました。

ということで、今回はその部分を引用転載しようと思います。




が その前に。

私は15年ほど前に、図書館で木が人になり、人が木になる
という本を借りたのが、岩田慶治さんの本との最初との出会いでした。
タイトルと本の佇まいにひかれて、何気なくそれをを借りて読んだら、
一気に引き込まれてしまい、深い深い感銘を受け、この本をずっと手元に置いておきたくなり、わざわざ買い直したくらいです。

この本ではじめてアニミズムという言葉と出会い、
自然のなかに融けこむ精霊や樹木崇拝の信仰の存在を知りました。

そしてその後、岩田慶治さんの本を何冊か購入して読んだのですが、
この本がやっぱり一番好きで、パラパラとめくっては出てきたページの文章を読んで触れる。というようなこともたまにしています。

もし図書館などで見かかることがあれば、ぜひ、お手に取っていただいのですが、私の記事でも、別の機会にまた取り上げてご紹介したいと思います。



と、いうことで、冒頭に書きました
「岩田慶治さんの『カミと神』267P」を引用しようと思います。
ちなみにこの『カミと神』という本は、数年前に古書で手に入れたものの
開封しないまま、ずっと本棚の中にありました。

なので今日、初めて開きました。
きっと今日がその日、だったのでしょう。



本を開くと
ちょうど266Pから(この記事のタイトルにもしましたが)
「カミと神の空間構造」という章が始まっていましたので、
266P-267Pまでを掲載しようと思います。

カミと神の空間構造

カミの誕生を出発点として、その場の展開をここではカミ、神、神以後、カミ以前の四つの位相としてとらえ、カミと神のあいだにアニミズム、シャーマニズム、多神教、一神教を位置づけてみた。 

そのうえで、それらを身体運動とのかかわりにおいて、体位によって受けいれられている「時」のかたちとして配列してみたのである。

神以後においては神によって支えられている文化の土台の崩壊をとらえ、神の死とともにカミが死ぬことによって、もしそういう事態が現実化するものとすれば、人類文化の解体を予告しようとしたのである。

そして次にカミ以前の位相として、もっとも包括的な、文化を超えた視点と、それにともなってそこに二元対立を超えたほんとうの空間がひらかれていることを示唆したつもりである。
生と死の世界ではなくて、生死を包む世界、昼と夜ではなくて昼夜を包む世界をしめそうとしたのである。
しかし、そういう世界を描くためには、われわれ一人ひとりが自分の生以前、死以後の世界へ主体的に参与することが必要であって、それなしに言葉と文字の遊戯を繰りかえすだけでは役に立たない。 

そこで今度は、以上のようなカミと神の位置づけを、空間構造として、図柄として見るとどうなるか考えてみよう。

「カミと神」266Pより

その一。インジゴー色の空、その広さと深さにおいて果てしなく、上下も東西南北の方位もない空間に、一点の明星が光る。一人の仏陀がそこに坐っていらっしゃる。明星の光が点滅しているのだけれどもこちらからは何も見えず、仏陀がよこたわっているのだけれども、いま、その姿は見えない。 青一色のなかにただよう空間、いや、無色の闇。それをカミ以前の空間としよう。 空といわずに、そこを海といってもよい。

そこにカミが誕生する。光が点じられる。仏陀の姿が照明される。 無限の空間に一つの中心ができる。そこをカミの誕生の場としよう。

カミが神に造型されていくにつれて、文化の衣裳を身につけていくうちに、その一点、その場はシマ (島)状の構造をとる。一点が拡大してシマとなり、それをとりまく海(環海)ができる。シマが大きくなれば海、つまり環海がせばまってくる。本来、そこは無限空間なのであるが、シマというパターンができてその力を増大させると、海もまた有限になってくる。パターンをとりまくものはパターンだからである。

われわれがよく論じる余白についても、ふつうには絵(パターン)の外側の場所が余白なのであるが、そうなってくると余白は穴のあいた空間、絵の部分が切りぬかれた残余の空間ということになる。しかし、虫食い空間のような有限な空間には、余白としての意味は乏しい。余白は無限の背後空間でなければならない。 二元世界の一方であることを拒否するものでなければならない。 さらにシマの面積が大きくなると、その内部に、空間分割がおこる。あるいは内部空間の構造ができてくる。

「カミと神」267Pより


二元対立を超えたほんとうの空間がひらかれている。


生と死の世界ではなくて、生死を包む世界、
昼と夜ではなくて昼夜を包む世界。

われわれ一人ひとりが自分の生以前、
死以後の世界へ主体的に参与することが必要であって、
それなしに言葉と文字の遊戯を繰りかえすだけでは
役に立たない。
 


これらの言葉は、今日、私の中に響きました。

そして267Pの情景は、とても美しく感じました。

「余白は無限の背後空間でなければならない。
 二元世界の一方であることを拒否するものでなければならない。」


岩田慶治さんのどの本でも、繰り返し書かれていることがあって、
それは「余白」について。その重要性。でした。

岩田慶治さんは絵を描かれる方なのですが、
描いたものの周りに現れ出てくる余白について、
それがむしろ主役でさえある。と書いていました。


読んでいた当時はその意味がさっぱりわからなかったのですが、
今になって、やっと”感じるように”なりました。

見えないところにこそ、すべてがあり、あらゆるすべてが充満している。
「何もなくてすべてがある」ということ。
波であり、粒でありながら、繰り返される無限の広がり。

というようなことを。


これはアタマでは理解ができないこと。だったんですね。





そして267P以降に、カミと神のあいだのアニミズム、シャーマニズム、多神教、一神教について、カミ以前と神以降について、「家(の窓)」という形でその違いを書かれていたのが面白かったので、それも転載しておきます。

こういうふうにカミ以前からカミにいたり、神をへて神以後につづく宗教的位相の変化を、空間構造の変容としてとらえることもできる。

水面に氷が張り、厚みをまし、ひび割れる。その状態と対比してもよい。
 
その二。空間という、ややわかりにくい言葉――われわれはえてして、それを二次元の、白紙のような平面としてイメージしてしまうのであるが―― その空間イメージを人間の住家にたとえてみよう。そうすると住家にはさまざまな門がまえ、間とり、屋根、窓のつくりなどが見られる。ちょうどわれわれの身体の位相がそうであったように、住家の形はさまざまであり、そのなかでとくに窓のつくりがカミや神のあらわれ方に対応すると考えることはできないであろうか。もちろん比喩としていうのであるが――。

具体的には、それらのカミや神に出逢い、また、それらを招き寄せるにふさわしいいく通りかの住家がありそうだということである。しかし、このばあい、民家をイメージしたのでは複雑すぎるので、卵型の空間、巨大な鳥の卵のような家、あるいは部屋をイメージしたうえで、それらの家の窓について考えてみる。

1 アニミズムの家は窓一つ、しかし、卵型家屋のどこに窓があいているかはわからない。 状況しだいである。その窓から雲が見えたり、鳥が見えたりする。 椿の花が見えたり、ネコが見えたりする。その一瞬、その一箇所に窓があくのである。

「カミと神」268Pより

2 シャーマニズムの家は天窓つきである。そこから見えるのは常に天上の様子である。光と雲が見え、鳥や巨木が見える。その窓には屋上に出るための梯子がかかっているかもしれない。シャーマンはいつも、その窓をとおして、はるかかなたにある天上の世界に飛行しようとしている。 

3 多神教の家には窓がたくさんある。 卵型の側面の壁、窓がならんでついている。 その家の住人は家のなかをぐるぐる歩きまわりながら、それらの窓から外を眺めている。 山川が見え、街並みが見え、人びとの群れが見える。かれはそれらの風景を見つめながら、それぞれにやさしい視線を送っている。 めぐりめぐる風景の多様性を、一つ、また、一つと享受している。

4  一神教の家には窓がない。だから肉眼で外界の風景を見ることはできない。 しかし、神の世界 がやがて壁をとおして見えてくるものと思っている。 あるいは自分の坐っている足もとに窓、あるいは通路があって、そこから神への道がひらけてくると思って疑わないのかもしれない。 だから、 眼をつむっていても、神を見ることができるのであろう。


5 神以後の世界における家をどのようにイメージしたらよいだろうか。 この世界の住人は海を失ってシマべったりの空間、ほんとうの自然の見えない世界にいるのだから、その家は中庭という人工庭園のまわりに建てられた住宅なのだろうか。城郭のような、高層集合住宅のような家がそれにあたるだろうか。日ごろ、そういう世界に住んでいながら、自分の住む家のイメージがうかんでこないのである。 家の断片ばかりが思いうかぶ。

6 カミ以前の世界における家、それは内部も外部もない、無限に包容する家でなければならな い。そうなると、そういう民族がどこにいるかは別にして、砂漠や草原に住む遊牧民・狩猟民の家がこれにあたるだろうか。どこもかしこも窓ばかり。もっとも、こういう樹下石上の世界では家の形にこだわらないかもしれない。自分を全面的に受けとめてくれる空間がありさえすればよいのだろう。

以上のような形の空間、空間構造のなかにカミが宿るのである。カミといい神という、また、カミ以前といい神以降といっても、その相違はカミの本質が互いに相違しているのではなくて、カミの容れもの、カミの宿る部屋が違うのである。部屋のつくりが違うから、そこに宿っているカミの姿も違うように思われているのである。

「カミと神」269Pより



ではでは、今日はここまでで。

しばしこの『カミと神』を読もうと思います。

さらに気がついたことが出てきたら、追記するか、
また記事にしますね。




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