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【お知らせ】8月のクリスタルボウルの音をアップしました。〜「生命の煌めき」

こんばんわ、Kaloです。


もうお聴きいただいている方もいらっしゃると思いますが
昨日、8月のYouTube動画をアップしました。

この記事の最後にリンクを貼らせていただきましたので
ぜひ、ご視聴くださいませ。



今回、音を奏でながら降りてきた言葉は「生命の煌めき」でした。

お日さまが沈み
空と海の境界線が
消えたあの時間
暗闇の中で
生命の煌めきを
見つけました
この地球に生まれ
今、この瞬間に在れること
そのすべてに喜びと感謝を

YouTube概要欄より




私にとっては、この夏、兄の死からはじまり、
多くの人にとって根源的な部分に存在する「死」に対しての恐れ
(それは自分自身の死であると同時に愛する存在の死でもあります)
を体験し、見つめて、そこから生命について、
「生きること」「在ること」について考える。ということが、
改めてテーマとして巡ってきていると感じた季節でした。



日を同じくしてちょうど昨日が、兄の49日の法要でした。

葬儀の時に来ていただいた住職に兄の自宅まで来ていただき
法要を執り行ったのですが、
「お兄様は59年のお役目を終えて、還られた。」と
お話しされる住職の言葉に耳を傾けていると、
浄土真宗の生命に対する捉え方が本当にしっくり来ます。

「長くても短くてもそのお役目を決めてここへいらした。
そしてお役目を終えられたので還られたのです。」

「浄土の世界へ。と願う必要はありません。
なぜなら既に其処にいらっしゃり、この世のわたしたちすべてをみることができる場所にいらっしゃるので、わざわざ思い返す必要もなく、
寂しがっているのではないかと心配する必要もない。
もしお伝えするのであれば感謝のお気持ちだけで十分です。」


「(浄土真宗では)決まり事はありません。
やってはいけないこと、やらなければいけないことはなにもないので、
なんならお仏壇も、お墓さえも必須ではないです。」

また、お供え物についての話をされていましたが、
「人の体を脱がれたということは、
欠けのない状態、食物を必要としない存在となったということです。
実際にお供え物をされても(物理的に)食べられませんので。
それよりもこちらにいる私たちが、
美味しいものを食べて味わい、美味しいと感じ、
自分達のために美しい花を飾ってその香りを楽しんだり。
好きな音楽を聴いたり、楽しいことをして幸せと感じる
その私たちが感じる感覚を、我がものとして
共に感じることができますので、ぜひそうされてください。」と。

とても良い話を聞かせていただきました。



こちらにも浄土真宗の話など関連記事を書いておりますので参考までに。






また、YouTubeの概要欄でも少し触れましたが、
ちょうどお盆の時期に、ニループレムさんが主催されていた
OSHOのサマサティ瞑想(死の瞑想)というものに参加しました。

“OSHOヒューマニバーシティ”を産み育てたスワミ・アナンド・ヴィレッシュが、絶望的な環境で始まりながら、世界中の人から無二の愛の人として慕われるようになった人生の最後に創った、美しくパワフルな瞑想です。

「目覚めて生き、十全な生から溢れる祝祭の中で、目覚めて死ぬ」
という神秘家OSHOのビジョンと、死者の魂の旅路を師が導くプロセス、「バルドー」を伝える「チベット死者の書」、両方からインスピレーションを得て、この瞑想は生まれました。


「“サマサティ“とは、覚醒、または 意識、という意味だ。
それを、真正なマスターたちは、
“正念(今・この瞬間に気づいていること)“
”無選択の気づき“
“無選択の気づき“
などの名前で呼んだ―」
そう ヴィレッシュは言います。

「Oshoはそれを、“ウィットネス(見守る・観照すること)”と説明した。
“サマサティ“は、仏陀が生前最後に残した言葉であり、
Oshoが託した最後の瞑想グループの名前でもあった。
母の死が、私がこの瞑想を作ろうとした動機だったが、
今ではそれは、僕自身の死の準備でもあったことがわかる。
この瞑想を、私たちの多くが抱えている、死にまつわる否定と恐れに
気づきをもたらすために、使ってほしい。
この瞑想は、自分が置かれた状況や境遇に、自動的に反応するのではなく、
それらを観照できるアートを練習するためにある」


最初の6つのステージは、意識的に死を迎える練習―
あなたの生の終わりをリハーサルする機会だ。
残りの4つのステージは、
全身全霊で生き、
すべての瞬間を慈しむことを憶えておくためにある」


サマサティ瞑想は、10あまりのステージでできていて、一歩一歩、寄り添うように、この特別な旅立ちの準備を整えてくれます。



生は、今日も明日もあって当たり前のものでも、義務の固まりでもなく、
それ自身、絶え間ない機会と贈りものに満ちたものだと気づくのは、
目覚めです。

ニループレムさんのFBページより

瞑想の中で死を迎える練習をする。
はじめての体験で、素晴らしい瞑想でした。


ーーーー
瞑想では、実際に意識の中で死を迎えます。

私たちは生きていて、今日も明日も明後日も、1年後もあると思っている。
けれど、実際は兄のように突然、その日(死)を迎えるかもしれない。

なので、実際にその日、その瞬間に行ってみるのです。


瞑想が進んでいくと、
「この身体に入って、体験した人生はどんな人生でしたか?
一番幸せだったのはどんな時でしたか?」
と言われます。

そうして思い出されるシーンは、
なんでもない日常の1シーンだったりします。

高校の時に行った房総半島の海。
会社のみんなで屋上で花火大会を見ているシーン。
海辺で魚肉ソーセージをかじっている2歳くらいの私、
おばあちゃんのうちの隣の田んぼで小学生の私がみつけた雨蛙。
ジリジリと蝉が鳴いて暑い太陽の中、
汗をかきながら床に寝転がっている私。
そのうち、失恋して膝を抱えてユーミンを聴いている私や、
元カレと道路の真ん中で怒鳴り合いの喧嘩をしたシーンも
思い出されて、ああ、何もかもすべてが愛おしい。と感じるのです。



「さぁ、その日、その時(死の瞬間)が来ました。
愛する人、家族や友人にさようならを伝えにいきましょう。」

さようならを伝えにいく人を思い浮かべながら、
また、これまでの人生が走馬灯のように映し出されていきます。

私はこの人生で出会った人、ひとりひとりに
「さようなら」を伝えにいくのですが、
出てくる言葉はすべて「ありがとう」になっています。
出会えたこと、それだけでもう感謝なのです。
最後には、素直になれないままに疎遠になってしまった友人を抱きしめ、
愛と感謝を伝えていました。


こうして、瞑想で死を体験することで
私たちは、あらためてこの地球に「体験しに来た」と
実感として感じました。

そして、
そこには体験の大きさの差など存在せず、
その体験のひとつひとつ、
どんなに些細な体験もすべてが貴重で、本当に愛おしい体験で、
何もかも、そのひとつひとつがすべて完璧であり、
幸せであると実感したのです。


そうして改めて思ったのですが、
私たちは目覚める必要すらない。と。
もう本当に、ただそのまま今のままでいい。
もしどんなに悲惨なことが起きたとしても、
それすらもわたしたちは包み込むことができる。
そしてすべてが「愛おしい体験」として、
存在しているのだと。



すべての生命がすべての瞬間で、煌めいている。と。



最後までお読みいただいて、ありがとうございます。







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Kalo
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