忘れてしまったことさえ知らなかった記憶。〜#2 貨幣経済がもたらしたこと
こんにちわ、karo.です。
この記事は前回の記事からの続きで、今読んでいる「植物と叡智の守り人」というネイティブアメリカンの植物学者の女性が書いた本から、感じたことを書いています。今回は「なぜ私たちは(本来の自分を)忘れてしまい」「忘れてしまったことすら憶えていない」のか、について。
消し去られた記憶。
この本には、ネイティブアメリカンが、入植者にさまざまなものを奪われていった過程も書かれていました。
連邦政府によるインディアン移住政策で、兵士に銃を突きつけられて「死の道」を歩かされ、何度も土地を奪われて何度も移住させられたこと。そしてそれでも消し去れない彼らのアイデンティティーを消し去るために、インディアンの子供たちを集めて遠い寄宿学校へ送られるようになりました。これは筆者の祖父が子供だった頃のことです。つまり今から2世代前ですね。
連邦政府によるインディアン移住政策は、多くのネイティブアメリカンから故郷を奪った。
昔から伝わる知識と暮らしから、先祖たちの墓から、私たちを支えてくれる植物から、私たちを引き離したのだ。
だがそれでも連邦政府には、私たちのアイデンティティーを消し去ることができなかった。
そこで彼らは、新しい方法を試すことにした。子供たちを遠方の学校に送り、学校やその文化から切り離したのである ーー 長期間そうしておけば、自分が何者であるかを忘れてくれる、と期待して。
インディアン保護区のいたるところに、政府の役人が子供たちをかき集めて政府が建てた寄宿学校に送り、それに対して報奨金を受け取っていたと言う記録が残っている。
やがてそれが選択肢として与えられたものであると言うふりをするため、両親は子供を「合法的に」学校に送るための書類にサインさせられるようになり、それを拒めば刑務所に送られる場合もあった。
学校に行かせることで、乾ききった農場で暮らすよりもましな将来を子供に与えられることを願った親も中にはいたかもしれない。
政府からの配給ーーゾウリムシだらけの小麦粉と、バッファローの変わりになるはずの腐敗したラード ーーが、サインするまで止められることもあった。
ちょっと本題から逸れるのですが、これを読みながら、複雑な気持ちになりました。
世界中に、こうして地球とともに高い意識で暮らしていた部族がまだ存在しているし、多く存在していたでしょう。でも先進国と呼ばれる国は、彼らを発展途上国、後進国と「勝手に」言い、自分たちの価値観だけで学校を作り、大量のワクチンやら医薬品を送り、謎の茶色い栄養食を「支援」していませんかね...?もしかしたら、そこに別の「思惑」があるかもしれない。ということはないでしょうか?
また、それらは本当に彼らが必要としていること、欲していることなのでしょうか?遠く離れた日本に暮らす私たちは、状況や本質を見極めずに、ちょっとしたお金を大きな支援団体に寄付したりして、良いことしているというふうに慢心していませんかね...?
地球の資源を貪り、木を伐採し、温暖化をひきおこして気候変動が起き、土地が干からびて、動物も植物も育たなくなり、そうして生きていく糧を失わせているのは先進国とよばれる国によって...ではないでしょうか?
私は、想像以上にあらゆるものを搾取し続けているのではないか?今一度考えるべきかもしれない。と、思いました。
話を元に戻します。
貨幣経済によって、私たちは「モノ」になった。
こういったインディアンへの弾圧のようなことは世界中で、何世紀も前から今もなお、ずっと起きていますよね。
どうして弾圧がおきるのか?なぜアイデンティティーまでを消し去ろうとするのか。私は、それは「恐れ」からだと思うのです。
貨幣経済によって本来、誰のものでもない土地、地球の贈り物である水や鉱物などを「モノ」として売り買いするようになって、地球は私たちにとって「モノ」になってしまい、私たちは地球から完全に切り離されてしまった。そして、人も動物も植物も「モノ」になってしまった。
私たちは「物質」になってしまった。
完全に3次元という物質世界に意識の土台を置いて、生きることになったのです。
子供、言葉、土地。生きるのに懸命で気がつかないうちに、ほとんど何もかもが剥ぎ取られ、盗まれてしまった。それほどの損失に直面しながらも唯一、部族の人々が捨てられなかったのが、土地の持つ意味だった。
入植者にとっては、土地は所有物であり、不動産であり、資本であり、あるいは天然資源を意味した。
けれども私たちにとってそれはすべてだった。アイデンティティー。先祖とのつながり。私たちの親戚である人間以外の動物たちの住処。
それは私たちにとっての薬局であり、図書館であり、私たちを生かしているすべてのものの源がそこにあった。
私たちの土地は、世界に対して私たちが負っている責任を果たすところであり、神聖な場所だった。
それは誰のものでもなかった。商品ではなく贈り物なのだ ーー だから、売ったり買ったりすることなどできなかった。
私の次元論でも書きましたが、私たちは自分がいる次元から、下の次元を観ることはできますが、上の次元を観ることも感じることもできないのです。
私たちの何代も前の祖先で、自分たちは地球の一部だと知っていた頃は、きっとまだ「忘れていなかった」と思うのです。だから5次元、6次元意識につながることができていた。でも「モノ」となってしまった私たちはこの3次元物質世界に縛られて上の次元を感じることも、観ることもできなくなってしまった。
なので、ずっと地球と繋がって生きていた先住民族と言われる人たちの存在は、すでにそれを「忘れてしまった」3次元世界の人間から見たら「よくわからない怖い存在」であり、脅威だったのですよね。
これを読んでいて私の頭の中で浮かんだのは、ヨーロッパ中世末の魔女狩りであり、オーストラリアのアボリジニへの弾圧政策であり、ここ近年の中国によるチベット侵攻であり、なのですが、きっともっともっとたくさんありますよね。
たとえば、「スピリチュアル」というと異常に反応し攻撃する人、毛嫌いする人っていますよね。それも同じ反応のような気がします。
よく考えたら大戦後、アメリカの植民地と化した日本(笑)で、大麻が神事に使われ、神とつながるということから恐れられて禁止されたことも同じだと思いました。日本もそもそも八百万(やおよろず)の神の国です。太鼓や鐘の音を響かせて天や地と会話をしたり、麻やきのこなど自然のものを使用したり祭りで一晩中踊ったりしてトランス状態になることは、日常の中にある神と繋がる行為でした。そうしてバランスを保っていたのです。先住民族同様、ずっと地球と繋がり土地や自然の声を聞き、生きてきたのですよね。
ですが、世界で貨幣経済が進むとともに、私たちはどんどんモノ化していき、日本の地面は区画整理されアスファルトで覆われてしまい、学校の給食が政治的に「パンと牛乳」になって、私たちは完全に「アダムとイヴ」となってしまった。
その女性(イヴ)は、その木の果実を食べたために園から追放され、荒野を彷徨うことを強いられ、枝にたわわに実るみずみずしい果実を食べることは許されず、そのかわりに額に汗して働いてパンを作らなければならなかった。そして食べるためには投げ出された荒野を征服せよ、と教えられた。
(前回記事「忘れてしまったことさえ知らなかった記憶。〜#1 スカイウーマンの物語」より)
とはいえ、私たちは一方的な被害者ではありませんよね。被害者でもあり加害者でもあるのです。そしてこれからの答えは、ひとりひとりが「思い出すことを思い出す」ことで、わかっていくのでしょうね。
(つづく)