↓こちらの記事の続きです。
兄が他界して
すぐに葬儀の打ち合わせとなりました。
うちの代々の宗教(菩提寺)は、浄土真宗(東)なのですが、
実は私は浄土真宗について、ほとんど無知でした。
というか、日本のお寺さん、宗教宗派について、その関係性について
ほとんど知りませんでした。
打ち合わせの最中に、葬儀会社の方から
「葬儀に参列していただいた方には、お塩を返礼としてお渡しするのが通常なのですが、本来は浄土真宗では塩はいらないのです。(実際は色々な宗派の方がお見えになるので、お塩をお渡ししました)」
「浄土真宗は、亡くなられた方は光に戻られた。ということだけなので、
死を不浄のものとしていませんので。」と言われました。
おっ?!
「光に戻るだけ?」「死は不浄ではない?」
この言葉を聞いて、私は浄土真宗に俄然興味が湧きました。
「戒名ではなく、浄土真宗では法名になります。名前も短くて2文字です。」
「他宗派では極楽浄土へ行くために死装束として短刀を持たせたり、足袋や杖などいろいろとご用意するのですが、浄土真宗ではすでに仏様なので一切必要ないです。とてもシンプルです。」
…と。
聞けば聞くほどナチュラルでシンプル。なんか良いなぁ。と思い、
帰ってから少し浄土真宗について検索しました。
浄土真宗というと「他力本願」や「悪人正機」。
念仏を唱えれば出家していなくても、凡夫でも誰でも、仏様に救われる。
みたいなイメージが一般的にあるようで、
ある意味、それが当時の人々への救いになって鎌倉〜平安時代に日本に多く広まったと言われていますが、
読み解いてみると浄土真宗って、めちゃスピリチュアルじゃないですか。
ちなみに、浄土真宗は、親鸞さんなのですが、実際は親鸞さんの死後に、その門弟たちによって開かれたそうです。
親鸞さんは浄土宗の法然さんのお弟子さんでした。
親鸞さんの書いた本がのちに教義となって、浄土真宗が生まれ、
教義の基本は「南無阿弥陀仏」と、唱えることで誰でも成仏できる。
というものだったのですが
この「南無阿弥陀仏」の意味ですが、これがまた….。
つまり、「南無阿弥陀仏」と唱えることは、
「私たちははかり知れない光の存在に戻ります。」なんですね。
”名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではない。”
これって、
「如来の本願力(他力)」というのが、光の存在(=魂、ハイヤーセルフのことかな?)であって、
「凡夫のはからい(自力)」というのが自我のこと。
だと思うのです。
"疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ順う心が発った時に往生が定まる"
つまりは本来の自分(ハイヤーセルフ)の声を聞くことができるようになって宇宙と繋がり、その声を信じ切ることができた時に、その人は悟り(宇宙の真理)を得る。
という話ですよね。
誤解されている「他力本願」の本当の意味は、自我の我欲に従うのではなく、ハイヤーセルフ(他力)、つまりは宇宙の計らいの本願に従うことである。という意味だったのでは?と。
小学生の頃、夏休みにおばあちゃんのうちへ行くと
お仏壇にむかって毎朝、おばあちゃんが
「南無阿弥陀仏〜南無阿弥陀仏〜南無阿弥陀仏〜南無阿弥陀仏….」
と唱えていた姿を思い出しました。
これって…..最近、私が天使の名前を呼んでいるのと
似ているんじゃない(笑)
祖母は生前、アミダーバを毎日呼んで宇宙と繋がっていた。
今は私が天使たちを呼んでいる…。
光と天使。どちらも6次元的存在です。
(つづく)