音と言葉とコミュニケーションと 〜#1「情報」と「文字」について
こんにちは、Karo.です。
ここ数ヶ月ずっと、「音」について考えていて、まだ自分の中でもまとまらずにいるのですが、少しずつ描きながら考えてみようかな。と思いました。
昨年、私の次元論というマガジンを書いていた時に、「次元について#6〜さらなる高次元へ」という記事の冒頭で
実は6次元ってなんだろう〜...。とは、昨年からずっと考えてはいたのです。そうしたら、いろいろなヒントの欠片が昨年末からポンポンと来だしたのですが、そちらはまだ描けるほどの確信まで行っていないので、
と書いたのですが、そのヒントの欠片というのは「音」と「光」でした。「光」のほうは、私にはまだまったく未知なのですが、最近「音」は高次元でのコミュニケーションツールなのかな?という気がしてきています。今は私たちは言葉、言語を使ってのコミュニケーションですが、これから、つまり次元が上昇していくと「音」、つまり波動でのコミュニケーションが可能になっていき、それはある意味テレパシー的なものなのだと思うのですが、言語の壁や種(動物や植物など)を超えて、話ができるようになっていくのでは?というか、きっともともと大昔はそうしたコミュニケーションをしていたのだと思うので、そこに戻っていくようなそんな気がしています。
そして「音」は距離や時間を越えて伝えることができるようなものだと思うのです。
最近のclubhouseという新しい音声SNS、これも文字コミュニケーションから音声コミュニケーションへの移行で、さらにアーカイブも残らない、まさに今ここだけの体験ですよね。これは波動の交換であり空間の共有、「共同創造の場」であるような気がします。
つい最近、ちょうどclubhouseのとあるRoomにふらっと入って聴いていたら、興味深い話をされていた方がいてました。
声紋でその人が今どんな気持ちなのかがわかるという話で、声紋は心理カウンセリングにも用いられているそうです。311の時に、当時救護にあたった自衛隊の方々はきわめて心理的に過酷な現場の最前線にいたので、定期的に声紋を録って、うつ状態になっていないかどうかを調べていたそうです。それは98%の精度だったとお話しされていました。
声には情動の情報が入っている。のですよね。
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文章にも情動は現れるのですが、純粋な情動というよりも、もう少し固体化したもので、思考と混じった「メッセージ」となるのだと思います。
文章は文字の形ひとつひとつにも個別の意味と波動があり、文章はそれが集合したひとつの物質的側面を持った「別のモノ」と成る(生まれるというのかな?)ので、私たちは何か感じたことを文章に表現する時に、いちど物質化して落さなければならない。手間も時間もかかり、そして情動だけを表現することができない。のですよね。ですが、文章はそれ自体が物質の塊としての独自の色を持ったメッセージが形成されるので、それはひとつの作品となって、まったく別の価値を持ったものになるのです。
なので、コミュニケーションのツールとしては、質が違うというか、あまり向いていないのかもしれないと思いました。
一方、声は振動です。耳で聴いているのですが、実は言葉というよりも、空気の振動によって音を拾って、脳で繋いで言語化しているのですよね。補聴器のシステムはまさにそうですよね。振動を拾っている。そしてその振動は、脳への伝達と同時に実は身体全体、細胞全体に伝わっているのですよね。
だから、話している人は、相手より先に自分の身体の中に、自分の声の振動が直接伝わっていて、細胞全体に自分の言葉が響いている。言霊と言いますが、まず最初に自分の身体全体が自分の声を聞くことになるのです。そして身体全体から発せられた波動は、相手にも届きます。実際に会って話していれば、直接その波動が伝わります。
話さなくても実は、人の振動、波動、または固有の周波数自体、「気配」と呼ばれる形で、通常みんな感じ取っているモノですよね。あらためて「気」は「振動」であり「音」であり「色」なのだと思います。(「色」についてはまた後日...)
なので、声はそこに情動という情報が、雑音なく入りやすいので、今更ながらコミュニケーションツールとしてシンプルで最適なのですよね。むしろ、情動だけを伝えるのであれば、言語の違いはあまり重要ではないと思うのです。相手の言葉を理解するための言語処理は脳がやっているので、ちょっと作業処理が遅くて、でも振動は先に伝わってくるので言語がわからなくても、声の振動で相手の気持ち、感情などは先に感じ取ることができると思うのです。もともと、音楽は国境など軽々と越えていきますよね。そういうことなんだな。と思います。
「情報」という言葉がありますが、それって、これまでは時事的なこと、知識的なもの、ハウツー的なモノなどを指していたと思うのですが、本来は「情」を「報せる」のが「情報」なのではないかと思うのですよね。
つまり情動を伝えるのが、「情報」だと思うのです。
先に書いたclubhouseのRoomで「人は全く新しいテクノロジーを使ってシャーマニズムの世界へ回帰しているような気がする」と話されていたのが印象的でしたが、まさにそうだな。と思いました。
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いま、ふと思ったのですが、そう考えると、気持ちを伝えたい時に、メールは本当に向いていませんね。だいたいメールのやりとりで、関係がこじれることってすごく多い気がします。
友人や恋人と喧嘩したけれど、謝りたい。とか、そういうときには、もちろん会えればそれが一番いいと思いますが、会えない場合は圧倒的に電話の方が仲直りが早いと思いました。
もし電話ができない場合は、メールではなくて、直接手紙を書く方が、気持ちが伝わりますよね。手という身体を使って描いた文字(本当は1本の線でさえ)そこに情動が現れます。それは、結構はっきりわかります。心を込めて描いた文字にはその波動が現れるので、気持ちを伝える場合はその気持ちを手紙に託すのがとても良いと思います。
と、話がなぜか恋愛相談みたいな方向になってしまいましたが...(笑)
あ、手書き文字って、水や氷などが結晶化するのと似ていると思います。
自分の描いた文字は日によって大きさや形が変化しますよね。筆記具に左右されるところも多少はありますが、現れる形で自分の気持ちの波の変化がわかります。私は不定期で日記を描いていますが、日によって文字が全く違っているので(笑)、すごくわかりやすいと思っています。
また、もう何十年も前のことですが、友人が精神的な病に罹った時に、退院してすぐの頃に手紙を送ってくれました。それまで、本当に誰よりも美しい文字を書いていた彼女のその文字は、便箋の中央ではなく、少しはずれた下の方の場所に、本当に弱々しく、小さく在って、でもひとつひとつの文字を一生懸命に描いたであろうというのが伝わって、号泣した覚えがあります。(いま、思い出してまた泣いてしまいましたが、ちなみに彼女は、もうすっかり元気です)
そもそもの文字が上手い下手とか関係なく(むしろそちらは個性なのだと思うのですが)手から、指先から、出ている振動が文字という結晶を創るので、振動がうまく出ていないとき、乱れている時には結晶の形は崩れるし、とても動揺している時、ココロが壊れてしまうほどのショックがあった時などは文字自体が描けなくなることがありますよね。なので、たまには手書きで文字を書くと普段の自分の意識すらできない小さな情動の波を知ることができると思います。
「自分は今どんな感じ?」っていうのが、文字の形に可視化されるので。
でもですね、描かれた結晶の形(文字)自体は、完璧に美しくても、その形が何らかの原因で崩れてしまったとしても、それ自体は、あまり気にせずに。崩れた結晶もどれもすべて美しいのです。それが生命だと思うので。
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....と、音のコミュニケーションの話を書きたかったのに、書いているうちに、どんどんいろんなことが浮かんで脱線しちゃって、なぜか文字の話になってしまいました。
毎度のあるあるですが ...(苦笑)。
まだ描きたいことがありますので、次回に続きます〜。
今回も読んでいただいて、どうもありがとうございます。