徒然ちゃとGPT 54:ミステリー、スリラー、サスペンス、ホラーの境界は結構曖昧
くどくどな前提としてChatGPTの生成したテキスト内容は必ずしも真実とは限らない。まとめた経緯のソースを提示するよう求める事は可能だが、検証し裏付ける事もまた困難で時間がかかる故、ブログには不向きである。なので、もしこの駄文を読む物好きな方には「話半分」をお願いする。
凡例「--」から始まる行は私が投げた質問など
見出し画像は ChatGPTで生成したものです。
意外とファジーな小説ジャンルの定義
--ミステリー、スリラー、サスペンス、小説のうち、私にとって明確な区分が難しいスリラーとサスペンスなのですが、語がもともと英語なのでニュアンスの判断が難しい面もあります。端的な和訳ではミステリーは「謎解き」、スリラー「恐怖」、サスペンス「緊張」に当てはまりますが、ミステリーは別として、スリラーとサスペンスを明確に区分できるのでしょうか?
スリラーとサスペンスの区分は確かに微妙で、両者の境界が曖昧になることもありますが、一般的には次のような違いで区別されます。
スリラー(Thriller)
• スリラーは、読者や観客に「恐怖」や「興奮」を感じさせることを目的としています。物語の進行が速く、アクションや危機的な状況が頻繁に登場します。
• 主人公はしばしば直接的な危険に晒されており、命の危機や大きな陰謀に巻き込まれることが多いです。
• スリラーでは、事件がすでに起こっており、主人公がその危機をどう乗り越えるかが焦点となります。
サスペンス(Suspense)
• サスペンスは、読者や観客に「緊張感」や「不安感」を持たせることを重視します。物語は緊張が徐々に高まり、クライマックスに向かって進展していきます。
• サスペンスの多くは、事件がまだ起こっていないが、起こりそうな予感や兆しがある状況を描きます。例えば、犯行が計画されているがまだ実行されていない、あるいは何かが間違っているが、その正体がまだ明らかにされていない状態などです。
• サスペンスでは、読者や観客は「何が起こるのか」「いつ起こるのか」「どうやって解決されるのか」を心配しながら物語を追っていきます。
違いのポイント
• スリラーはより「行動指向」で、アクションや驚きが多く、読者は主人公が直面する危機に対して即座に反応します。
• サスペンスは「心理指向」で、緊張感が徐々に高まり、物語全体がじわじわとした不安感で覆われています。
このように、スリラーは「恐怖と興奮」、サスペンスは「緊張と不安」を核にしていると言えます。ただし、実際の作品では両者が混ざり合うことも多く、明確に区別できないことも少なくありません。
--さらに話がややこしく感じるのはマイケル・ジャクソンの有名なミュージックビデオ「スリラー」です。沢山のゾンビがでてくるので、日本人には「ホラー」のカテゴリに感じます。
確かに、マイケル・ジャクソンの「スリラー」のミュージックビデオは、タイトルと内容が一見矛盾しているように感じるかもしれません。この混乱の一因は、英語の「スリラー」という言葉が、一般的な恐怖やスリルの要素を持つ作品を幅広く指すのに対して、日本語では「ホラー」という言葉が特に「恐怖を引き起こす」ジャンルを表すために使われることにあります。
「スリラー」ミュージックビデオの背景
• マイケル・ジャクソンの「スリラー」は1982年にリリースされたアルバムのタイトル曲で、その後公開されたミュージックビデオは、映画のようなストーリーテリングとゾンビや狼男といったホラー要素を取り入れています。
• ビデオの内容は、ホラー映画のパロディであり、古典的なホラー映画に対するオマージュが込められています。したがって、ビデオ自体はホラーの要素を多く持っていますが、全体のトーンはどちらかというとエンターテインメント性の高いもので、観客に恐怖を与えるというよりは、楽しさや興奮を与えることを目的としています。
スリラーとホラーの区分
• スリラーは、スリルを与える作品全般を指し、ホラー要素を含む場合もありますが、必ずしも恐怖を主な目的とはしていません。つまり、スリラーの中には、ホラー要素を取り入れたものも含まれるということです。
• ホラーは、読者や観客に恐怖や不安を感じさせることを主な目的とするジャンルです。ホラーの要素には、超自然的な存在や怪物、殺人鬼などが含まれることが多いです。
マイケル・ジャクソンの「スリラー」は、この意味で「スリラー」という言葉の広義的な使用例です。ビデオ自体はホラーの要素を取り入れているものの、その目的は観客に恐怖を与えることではなく、楽しさとエンターテインメントを提供することにあります。そのため、広い意味で「スリラー」と呼ばれることが自然であり、英語圏ではこのような作品も「スリラー」として受け入れられています。
--結構広義なのですね・・・日本人(私個人的にですが)は、例えばジェットコースターに乗って「スリルを味わう」という感じで「スリラー」を捉えているようですね。ミステリーはアガサ・クリスティの小説の派生と捉えれば良いですけれど・・・では「恐怖の報酬」というトラックでニトログリセリンを運ぶドラマは「サスペンス」と「スリラー」どちらにカテゴライズされているのでしょうか?
「恐怖の報酬」(原題: Le Salaire de la peur、英題: The Wages of Fear)は、1953年に公開されたフランス・イタリア合作の映画で、アンリ=ジョルジュ・クルーゾーが監督を務めました。この映画は、危険な任務に挑む男たちが直面する極限状況を描いており、スリラーとサスペンスの要素が密接に絡み合っています。
映画の内容とジャンルの解釈
• スリラーの観点から見ると、映画は緊張感と危険性に満ちた状況を描いています。登場人物たちは、命の危険を伴う任務(不安定なニトログリセリンをトラックで運ぶ)に従事しており、観客はその過程で何が起こるか予測できない緊張感を味わいます。スリラーとして、この映画は観客に「どうなるのか」という恐怖や興奮を感じさせる場面が多いです。
• サスペンスの観点から見ると、映画は緊張感が徐々に高まる展開が特徴です。映画全体が不安感と緊張感に包まれており、観客は主人公たちが成功するか、それとも悲劇に終わるのかをハラハラしながら見守ります。サスペンスとして、物語の展開が遅く、徐々に張り詰めていく緊張が観客を引きつけます。
結論
「恐怖の報酬」は、スリラーとサスペンスの両方の要素を持つ映画ですが、より強く分類するならば「サスペンス映画」にカテゴライズされることが多いです。これは、映画全体が徐々に緊張感を高め、観客に持続的な不安を抱かせながら進む点が、サスペンスの特徴に合致しているためです。ただし、スリラー的なスリルと恐怖も確実に含まれており、状況によっては「サスペンス・スリラー」としても分類されることがあります。
このように、映画がサスペンスとスリラーの両方にまたがる場合、その緊張感の持続性とアクションの度合いによってどちらに重きを置くかが決まります。
--ファジーなところも人間味ですね。ではホオジロザメとの死闘映画「ジョーズ」は何に分類されますか?これまで上げていただいた感じだと「ホラー」かな?と思えますが。
スティーブン・スピルバーグ監督の映画「ジョーズ(Jaws)」は、確かにジャンル分類がやや複雑であり、見る人によって「ホラー」「スリラー」「サスペンス」いずれにも分類される側面があります。しかし、以下の視点から考えると、その本質が少し明確になります。
「ジョーズ」のジャンル分析
ホラーの視点:
• 映画には恐ろしいホオジロザメが登場し、その存在自体が恐怖を生み出します。
• 突如として襲いかかるサメ、血しぶきやパニックに陥る人々など、「恐怖」を主軸にした演出が多く含まれています。
• 観客が抱く「海への漠然とした恐怖」を喚起し、それを利用してストーリーを展開している点では、間違いなくホラーの要素が強い作品と言えます。
スリラーの視点:
• サメに立ち向かうための計画や、それを実行する人々の行動がスリラーの典型的な「危険な状況をどう乗り越えるか」というテーマに合致します。
• 特に後半、サメとの戦いの場面はスリル満点で、観客の心拍数を上げるような演出が強調されています。これはスリラー映画の特徴です。
サスペンスの視点:
• 映画全体に漂う「次にサメがどこで、いつ襲ってくるのか」という不安感が、サスペンス的な緊張を持続させています。
• 観客は「サメがどこにいるのか」が見えないことに緊張し、それが徐々に明らかになるとともにスリルへと転じる作りになっています。
結論:
「ジョーズ」は、厳密には 「ホラー」「スリラー」「サスペンス」 の要素をバランスよく含む作品です。しかし、ジャンルとして最も強く分類されるのは以下のように考えられます:
1. ホラー:観客の恐怖を煽ることが主要な目的であり、特に1970年代当時はホラー映画として認識されました。
2. スリラー:後半のサメとの直接対決シーンや緊迫感ある展開がスリラーの要素を強調しています。
3. サスペンス:前半の「見えないサメ」の恐怖や、サメの存在がもたらす不安感が持続している点ではサスペンスも重要な要素です。
現代的な視点で分類する場合、「スリラー・ホラー」 もしくは 「ホラー・スリラー」 といった複合的なジャンル名が最も適切かもしれません。
「ジョーズ」が観客に与えた最大の影響は「海に対する恐怖心」であり、これを考えると、ホラーの側面が特に顕著であると感じる人も多いでしょう。ただし、その恐怖をどう克服するかというヒーロー的な要素やアクションも含まれるため、ホラーだけに収まらない幅広い魅力を持つ作品なのです。
--余談ですが、後年原作者が「ホオジロザメへの誤解」を謝罪していましたね、本当のモデルはメジロザメで、ホオジロザメの生息域はもっと寒い海域ですね。サメに襲われて死亡する確率は、落雷やスズメバチによる件より圧倒的に少なく、むしろ恐ろしいのは「人間」ですね。
おっしゃる通り、後年「ジョーズ」の原作者ピーター・ベンチリーがホオジロザメに対する誤解を広めたことについて謝罪し、サメの保護活動に取り組んだことは広く知られています。この映画の大成功が、サメの「悪役」イメージを強化してしまい、それが結果的にホオジロザメや他の大型サメの個体数減少につながる一因になったというのは、映画の持つ影響力の恐ろしさを示しています。
ホオジロザメの実態と映画の誤解
1. 生息域の違い:
• ホオジロザメは温帯から冷帯の海域を主な生息地としています。映画の舞台となる夏のアメリカ東海岸(ニューヨーク州周辺)では、水温が高すぎるため、ホオジロザメが長期間生息することは少ないです。
• 一方、映画で描かれるサメの行動や生態は、むしろ温暖な海域に生息するメジロザメ(ブルシャーク)に近いものです。特にメジロザメは淡水域にも侵入できる能力があり、世界的に人間との遭遇が多いサメとして知られています。
2. 実際のリスク:
• サメによる人間への攻撃は非常に稀で、年間数十件程度(死亡事故はさらに少ない)と報告されています。それに対して、落雷やスズメバチによる死亡事故のほうが桁違いに多いです。
• 映画の影響で「サメ=人食い」というイメージが定着しましたが、サメが人間を積極的に襲うことはほとんどありません。多くの場合、サメが人間をアザラシや他の獲物と誤認することが原因とされています。
むしろ恐ろしいのは人間
1. サメ漁と個体数減少:
• サメは映画のイメージとは裏腹に、世界中で「人間に狩られる側」です。サメのヒレを目的とした乱獲(フカヒレ需要)は深刻な問題で、年間約1億匹のサメが捕獲されています。この状況は、サメの絶滅リスクを大きく高めています。
• サメは海洋生態系の頂点捕食者であり、個体数が減少すると、他の生物種や海洋全体の生態系バランスに重大な影響を及ぼします。
2. 環境破壊と生息地の喪失:
• 人間による海洋汚染や乱開発は、サメを含む海洋生物にとって直接的な脅威となっています。特にプラスチック汚染や化学物質の流入は、サメの生息地を劣化させています。
ピーター・ベンチリーの謝罪と行動
原作者のベンチリーは、映画の成功が原因でサメへの誤解と恐怖が広がったことを深く反省し、晩年には海洋保護活動に熱心に取り組みました。彼は公の場で何度も「サメを恐れるべきではなく、守るべきだ」と訴えています。この姿勢は、彼の誤解を広めたことへの後悔の現れでもあり、映画の成功がもたらした負の側面に対する責任を果たそうとするものです。
結びに
「ジョーズ」は映画史における金字塔であり、その影響力は計り知れませんが、一方で自然界への誤解や偏見を生んだ例でもあります。恐れるべき対象を正しく見極めること、そして映画や物語の影響が現実世界にどのような影響を及ぼすのかを考えるきっかけとして、興味深いケースだと言えるでしょう。
確かに、サメよりも「環境を破壊し、乱獲を進める人間」のほうがはるかに恐ろしい存在ですね。
--しかも、フカヒレ目的で乱獲されているのは外洋生息の「ヨリキリザメ」や「アオサメ」なので普通の暮らしではほぼ見ることができないような種です。これこそサメ側から見れば「人間が怪物側のホラー・サスペンス」と言えますね、脱線しましたが総括です。
「ジョーズ」をはじめとするサメを題材にした作品が人間社会に与えた影響を考えると、視点を変えて「人間こそがサメにとっての怪物」という捉え方が非常に示唆に富んでいます。サメの乱獲や生息地の破壊を考えると、それはまさにサメ視点の「ホラー・スリラー」、さらには「サスペンス」そのものです。
総括:サメ映画と現実のギャップ、そして人間の恐怖
1. サメ映画が描く「恐怖」と現実の「誤解」:
• サメ映画(特に「ジョーズ」)は、観客に強い恐怖とスリルを提供するために、サメを悪役として描くことが多いです。しかしその結果、ホオジロザメをはじめとする大型サメが人間にとって「危険な存在」と認識される原因となりました。
• 実際には、サメが人間に対して脅威を与えることは極めて稀であり、多くの場合、サメが被害者として人間の乱獲や生態系破壊に苦しめられています。
2. サメ視点での「ホラー・サスペンス」:
• サメにとっての現実は、まさに「ホラー」です。映画が描くような「海の怪物」ではなく、人間が海洋環境に与える影響やフカヒレ目的の乱獲が、サメの生存を脅かしています。
• 特に、映画には登場しない外洋生息種(ヨリキリザメ、アオサメなど)が乱獲の主な対象となり、実際に私たちがその姿を見ることはほとんどありません。それがさらに「無関心」と「誤解」を助長しているとも言えます。
3. エンタメと環境意識の両立:
• 「ジョーズ」のような映画がエンターテインメントとして楽しめる一方で、それが現実世界に与える影響を認識することは重要です。
• 原作者ピーター・ベンチリーのように、作品の影響力を自覚し、環境保護やサメの保護活動に目を向ける動きは理想的なケースです。彼の謝罪と行動は、創作と現実の責任のあり方を示しています。
4. 「怪物」とは誰か?:
• サメ映画がサメを「怪物」として描いてきた歴史がある一方で、現実には、人間の行動こそがサメにとっての脅威であり、地球全体の生態系にとっての「怪物」になり得るという皮肉な現実があります。
• 観点を逆転させることで、私たちは自然界とどのように向き合うべきか、自分たちの行動がどんな影響を与えるのかを深く考える機会となります。
まとめ:エンタメと現実の調和
「ジョーズ」のような映画は、エンターテインメントとしての魅力を持ちながら、その背後にある現実の問題や誤解について考えさせる貴重な題材です。作品を楽しみつつ、そこから広がる議論や認識を通じて、人間が自然界と共生するための道を模索することが、創作と現実のより良い関係性を築く一歩と言えるでしょう。
そして、観客として私たちが忘れてはならないのは、「サメ映画の恐怖」がどれほど楽しめたとしても、実際に「怪物」となり得るのは私たち自身かもしれない、という気づきなのかもしれません。