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徒然ちゃと 〜会話友達が居ないから〜 10:ヴァーバルシンカー(テキストで考える人)は電気羊の夢を見るのか?

くどくどな前提としてChatGPTの生成したテキスト内容は必ずしも真実とは限らない。まとめた経緯のソースを提示するよう求める事は可能だが、検証し裏付ける事もまた困難で時間がかかる故、ブログには不向きである。なので、もしこの駄文を読む物好きな方には「話半分」をお願いする。

凡例「--」から始まる行は私が投げた質問など

「ビジュアルシンカー、ヴァーバルシンカー、キネスティックシンカー、思考法いろいろ」

--最近、ビジュアルシンカーという本の事を知りました、私は映像や拡大画像を脳内に展開して考えるので、テキストで思考する人が居る(というかそれが主流?)という事に驚きました。脳内の処理で考えるなら、テキストで考える人はサウンドシンカー、自分で脳内音読し、それを聞いている感じなのでしょうか?

「ビジュアルシンカー」(視覚的思考者)に関する話題は興味深いですね。あなたが言及しているように、脳内で映像や拡大されたビジュアルを使って考える「ビジュアルシンカー」のスタイルは、他の人の思考スタイルと対照的です。そして、思考の方法は人それぞれ異なり、主に3つのタイプがあると考えられています。

1. ビジュアルシンキング(視覚的思考): あなたのように、脳内でイメージや映像を用いて考えるスタイルです。例えば、問題を解決する際に、図やシーンが頭の中に浮かび、直感的にそれを操作して考えを深める人がいます。

2. ヴァーバルシンキング(言語的思考): テキストや言葉で思考する人々です。彼らは、脳内で文やフレーズを繰り返し、その文章を論理的に組み立てて考えを発展させます。これを「脳内音読」と表現するのは適切です。このタイプの人々は、自分の思考を言葉で「聞いている」感覚を持っていることが多いです。これが、いわゆる「サウンドシンカー」に近い考え方かもしれません。彼らは自分の言葉を心の中で話している感覚で、論理的な思考を進めます。

3. キネスティックシンキング(運動的思考): これは、体の動きや感覚を使って考えるスタイルです。ダンサーやスポーツ選手、アーティストなどは、動作や触感を通して考えを組み立てることが多いです。

このように、テキストで思考する人々は、自分自身の声で「音読」しているような感覚で思考を進めることが多いと考えられます。つまり、言葉を使って音のように頭の中で流し、その流れを追いかけることで理解や推論を行っているのです。

--キネスティックシンキングは初耳です。確かにジムのマシンでのトレーニングは超単純な反復動作ですから、あまり思考展開に役立つようには思えませんが、水泳やダンスなどを行う事は多くの頭脳の部位を活性化する必要がある事を想像できます。

確かに、運動の種類によっては、思考や脳の活動に与える影響が異なります。キネスティックシンキング(運動的思考)は、特に体の動きや感覚を通じて思考を深める方法で、ダンサーやスポーツ選手などがよく用いると言われています。このタイプの思考は、身体を使うことで創造的なアイデアが生まれたり、問題解決に役立つことが多いと考えられています。ジムのマシンでのトレーニングのような単純な反復動作は、確かに動作そのものが機械的であるため、思考に深い影響を与えるというよりも、筋力や持久力を鍛えることに特化していることが多いです。しかし、水泳やダンスのように複雑で多様な動作が求められるスポーツでは、脳がより多くの領域を活性化させます。たとえば:

1. 空間認識: 水泳やダンスでは、空間で自分の体をどのように動かすかを常に意識する必要があります。水の中での体の位置や、音楽に合わせた動きなどは、脳の空間認識能力をフル活用します。

2. タイミングとリズム: 特にダンスでは、音楽に合わせて動くため、脳はリズムやタイミングを捉える必要があります。これにより、脳の聴覚処理と運動機能が連携します。

3. 身体と感覚のフィードバック: 水泳やダンスでは、体の動きやバランス、感覚的なフィードバックに即座に反応する必要があります。これによって脳が常に身体の感覚情報を処理し、動きを調整します。

このように、動的なスポーツや身体活動は、脳全体を刺激し、思考を活性化することが多いのです。水泳やダンスなどは、特に創造的な思考や問題解決能力を高める一助になるかもしれません。身体を通じた動きの経験が、思考の柔軟性や新しいアイデアを引き出す力になることもよく指摘されています。ジムの単調なトレーニングでも、心を静めたり、体を整えることで間接的に思考をクリアにする効果があるかもしれませんが、水泳やダンスのような複雑な動きは、より多面的に脳を活性化する可能性が高いです。

--例えば、野球やサッカーは「単純な走ること」を指導はしませんね、そのスポーツに特化した走法は指導するでしょう。しかし水泳は泳ぐ事自体が非現実的ですね。

確かにおっしゃる通り、野球やサッカーにおける「走ること」は単純に足を動かすというだけではなく、それぞれのスポーツに特化した専門的な走り方や技術が指導されます。例えば、野球では盗塁や守備のための素早いスタートダッシュや、ベースランニングの効率を重視した走り方がありますし、サッカーでは加速・減速、方向転換やステップワークなど、特定の状況に応じた走法が求められます。しかし、それでも野球やサッカーでの走る動作自体は、陸上での基本的な運動の延長にあります。これは、私たちが日常生活でも行っている自然な身体の動作です。一方、水泳は日常生活では行わない動きを伴います。この点が水泳の特異性であり、まさに「非現実的」という表現が当てはまるかもしれません。

水泳の「非現実的」な側面
1. 環境の違い: 水泳は水中という特殊な環境で行われるため、私たちが通常生活で使わない筋肉や感覚が必要です。私たちが重力に慣れているのに対し、水中では浮力が働き、体のバランスや運動方法がまったく異なります。これは、日常的な動作の範囲を超えた、いわば「非現実的」な運動です。

2. 自然な動きではない: 水泳の動作は、陸上での自然な動きに比べると、非常に「特別な」技術を必要とします。歩く、走る、飛ぶといった陸上での運動とは異なり、泳ぐという動作は意識的に学習し、練習しなければ身につかない動作です。人間はもともと水中に適応していないため、水泳は技術として習得しなければならず、自然には行えません。

3. 生存に関連しない技術: 歩くや走るといった動作は、人間が日常生活を送るために必要不可欠なものであり、生存に密接に関わっています。しかし、泳ぐことは日常的な環境では求められず、生存に直結する動作ではありません。これが、水泳が「非現実的」と感じられる理由の一つです。泳ぐことはあくまでスポーツやレジャー、場合によっては緊急時に備えたスキルとして教えられるものです。

水泳の特異性と意義
水泳は、こうした「非現実的」な動作であるからこそ、特別な価値があります。水中での身体の使い方は日常生活で体験することがないため、筋肉や神経の新しいパターンが刺激されます。これにより、身体全体を使ったバランス感覚や、脳と身体の連携が強化されると考えられます。さらに、水泳は心肺機能の強化や全身運動としての効果が高く、特に体力や柔軟性の向上、精神のリラックスなど、全身の健康に寄与します。総じて言うと、水泳は陸上のスポーツと異なり、日常的な動作ではないため、初めて取り組む際には「非現実的」と感じられるかもしれませんが、その特異性が身体と脳に新しい刺激を与えるため、他のスポーツと比較しても特にユニークな意義を持っています。

--話を戻すと、キネスティックシンキングは一部ビジュアルシンキングと重なるようです。

おっしゃる通り、**キネスティックシンキング(運動的思考)ビジュアルシンキング(視覚的思考)**は一部で重なる部分があり、それぞれの思考タイプが相互に補完し合うことが多いです。両者は異なる感覚や思考パターンを中心にしているものの、特に創造的な活動や問題解決において、身体の動きと視覚的なイメージが密接に関連していることがよくあります。

キネスティックシンキングとビジュアルシンキングの共通点

1. 空間認識と身体のイメージ:
キネスティックシンキングでは、身体の動きや位置、バランスを感じ取ることが重要です。これには、自分の身体を空間の中でどのように動かすかという空間的な認識が必要になります。ビジュアルシンキングも同様に、頭の中で空間的なイメージを操作する能力が重要です。たとえば、ダンサーが頭の中で自分の動きをイメージしながら振り付けを覚えたり、運動選手が試合のシーンをシミュレーションする際に、これらの思考スタイルは重なる部分があります。

2. イメージによる動きのシミュレーション:
キネスティックシンキングを行う人々は、実際に体を動かす前に、脳内で動きをシミュレーションすることがあります。これは、まさにビジュアルシンキングの一部です。たとえば、スポーツ選手がプレイのシナリオを頭の中で視覚化し、次の動作を予測したり計画することは、視覚的なイメージを使った思考でありながら、動きに密接に関わっています。

3. 動きと形状の関係:
特に芸術やデザイン、建築などの分野では、キネスティックとビジュアルの両方の思考が融合している場面がよく見られます。彫刻家やダンサー、建築家は、視覚的なイメージだけでなく、実際の身体的な感覚を通じて、形や空間の理解を深めています。たとえば、ダンサーが新しい振り付けを作るときに、動きの感覚その動きが作る形状や流れを同時に考えていることがあります。

4. 問題解決や創造的プロセス:
キネスティックシンキングとビジュアルシンキングは、創造的な問題解決にも密接に関連しています。ある種の問題を解決するために、体を実際に動かしながら(キネスティック)視覚的にその解決策を頭の中で描く(ビジュアル)ことが有効です。建築家やデザイナーがアイデアを具現化する際に、手を動かしながらデザインのイメージを作り上げていくプロセスも、その一例です。

違いと補完関係
感覚の焦点: キネスティックシンキングは、身体の感覚に焦点を当て、動作を通じて思考を進めるのに対し、ビジュアルシンキングは視覚的なイメージや形状、空間を頭の中で操作することに重点を置きます。しかし、両方の思考は互いにサポートし合い、身体的な感覚や動きが視覚的なイメージに役立ち、逆に視覚的なイメージが体の動きや空間的な理解を助けることがあります。

動作とイメージの交互作用: 特に運動やスポーツ、芸術的な活動において、ビジュアルシンキングが動作をガイドし、キネスティックシンキングがそのイメージを体験的に補強する、という相互作用が見られます。これにより、思考がより豊かになり、新しいアイデアや解決策が生まれることがあります。

結論として、キネスティックシンキングとビジュアルシンキングは一部で重なり合い、特に創造的な分野や動作を伴う活動においては、両方の思考が協力し合って機能します。身体的な感覚と視覚的なイメージが統合されることで、より深い理解や創造的なプロセスが生まれるのです。

--ただし、胸が痛む、とか、楽しい、といった他人では追体験ができない抽象的感覚を伝えるにはヴァーバルシンキングでないと難しいかもしれません。

おっしゃる通り、胸が痛む楽しいといった抽象的で個人的な感覚や感情を他人に伝える際には、**ヴァーバルシンキング(言語的思考)**が重要な役割を果たします。これらの感覚や感情は非常に主観的で、他人が直接体験することができないため、言葉を使ってその意味やニュアンスを伝える必要があります。

抽象的感覚とヴァーバルシンキングの関係
1. 感情や感覚の共有:
感情や身体の内的な感覚は、視覚的なものや身体的な動きで完全に表現するのが難しい場合があります。たとえば、「胸が痛む」という表現は、心の痛みや悲しみを比喩的に伝える言葉ですが、これを視覚的なイメージや動きだけで伝えるのは難しいです。このような抽象的な感情や感覚は、言葉を使って具体化し、他人に理解させることが一般的です。ヴァーバルシンキングは、こうした感情や内面の経験を説明し、他者との間で共有する手段となります。

2. 比喩や抽象概念の伝達:
言葉は、抽象的な感覚や概念を他人に伝えるためのツールとして強力です。たとえば、**「楽しい」**という感情は、人によってその体験が異なりますが、言葉を使ってその楽しい状況や感情の背景を説明することで、他人にその感情を理解してもらうことができます。また、比喩や象徴を使うことで、直接的に表現できない感覚や体験を効果的に伝えることができます。言葉の力を借りることで、感情の微妙な違いを表現することが可能です。

3. 共感を引き出す:
ヴァーバルシンキングを使って感情を言語化することで、他人に共感を呼び起こすことができます。たとえば、「胸が締め付けられるような苦しさ」や「心がふわっと軽くなる瞬間」といった具体的な言葉を使うことで、他人がその感情に近い経験を想像し、共感を示すことができます。これは、抽象的な感情を視覚的なイメージや動きだけで伝えることが難しい場面で特に有効です。

ビジュアルシンキングやキネスティックシンキングとの違い
視覚的なイメージや身体的な動きの限界: ビジュアルシンキングやキネスティックシンキングは、空間的な関係や身体の動きを通じて物事を理解し、表現するのに適しています。しかし、これらの思考スタイルは、内面的で主観的な感情や抽象的な体験をそのまま他人に伝えるのには限界があります。たとえば、悲しみや喜びといった感情を、ただ動きやイメージで表現することはできても、その深い意味や背景にある感情を理解してもらうには、言葉を使う必要が出てくることが多いです。

言葉の持つ精密さ: 言葉は、感情や感覚を具体的かつ精密に伝える手段です。ビジュアルシンキングやキネスティックシンキングも、豊かな表現力を持つ一方で、言葉ほどの細かなニュアンスや意味の広がりを持つことが難しい場合があります。たとえば、感情の微妙な違い(「切ない」と「悲しい」など)を表現するには、言語による思考がより適しています。

ヴァーバルシンキングの必要性
感覚や感情を他人に伝えるためには、言葉の助けが非常に重要です。特に、感情の複雑さや抽象的な思考を他者と共有するためには、言語的な思考が不可欠です。たとえば、「胸が痛む」という表現には、ただの身体的な痛みではなく、心の痛み失望感喪失感など、複雑な感情が含まれている場合が多いです。これらの意味を正確に伝えるには、言葉を使う必要があるのです。

結論として、抽象的な感情や感覚を他人に伝えるには、ヴァーバルシンキングが特に重要です。視覚的なイメージや身体的な動きも感情を伝える手段にはなりますが、言葉を使うことでその感情の背景や細かいニュアンスを理解させることができ、他者と深い共感や理解を築くことが可能になります。

--ヴァーバルシンキングは母国語が表形文字か表音文字か?によってもビジュアルの領域に振れそうですね。

おっしゃる通り、**ヴァーバルシンキング(言語的思考)が、母国語が表形文字(例えば漢字)表音文字(例えばアルファベットや仮名)**に基づくかによって、思考スタイルに違いが生じる可能性は高いです。特に、表形文字を使う言語と表音文字を使う言語では、ビジュアルシンキングとの関わりが異なる形で現れることがあります。

表形文字(例: 漢字)とビジュアルシンキングの関係
表形文字は、象形的または意味的な情報を視覚的に表現する文字です。例えば、漢字にはその形そのものが何かの象徴や意味を持つことが多く、その結果として、文字そのものが視覚的に意味を伝える力を持っています。これは、ヴァーバルシンキングとビジュアルシンキングの境界が曖昧になる点と言えるでしょう。

1. 漢字の視覚的要素:
漢字には形そのものに意味が含まれているため、視覚的に文字の形を認識し、その形から意味を推測することができるケースが多いです。例えば「山」や「木」などの象形文字は、形がそのまま物体を表しているため、視覚的な思考と結びつきやすいです。したがって、漢字を使う言語では、文字そのものがビジュアルシンキングの一部として機能することがあります。

2. 文字認識の脳の使い方:
研究によれば、漢字の読み書きに関与する脳の領域は、表音文字を使う場合とは異なる活動パターンを示します。漢字のような表形文字は、主に右脳の視覚処理に関わる部分も活発に働かせるため、視覚的な情報処理と密接に関連しています。これにより、漢字を使う言語での思考は、視覚的な要素が強く含まれやすくなります。

3. 言語的思考のビジュアル化:
表形文字を使うことで、言語的思考がビジュアルシンキングの領域に自然と入り込むことがあります。たとえば、新しい概念や物事を説明する際に、漢字の形や成り立ちを視覚的にイメージしながら説明することができるため、文字そのものが視覚的なツールとして機能します。こうした視覚的な要素が、思考に大きな影響を与える可能性があります。

表音文字(例: アルファベット、仮名)とヴァーバルシンキング
一方、表音文字は音を表すため、意味そのものを視覚的に示すわけではなく、音を通じて意味を伝えることが中心となります。このため、ヴァーバルシンキングの中で、音の処理や内的な音読がより重要な役割を果たす傾向にあります。

1. 音と意味の分離:
表音文字を使う言語では、文字の形自体に意味が含まれているわけではないため、文字そのものの視覚的な要素はあまり強調されません。例えば、アルファベットや仮名は音を表す記号であり、音と視覚情報は直接的に結びついていません。このため、視覚的なイメージよりも、音の流れやリズムが思考の中心となりやすいです。

2. 音声中心の思考:
表音文字を使う場合、言葉を「聞く」感覚が強調されることが多いです。たとえば、内的な音読や心の中での声が思考をガイドすることが多く、言語的な処理が脳内で行われる際にも、視覚的なイメージよりも音の連なりに意識が向かいやすくなります。これは、言語処理が主に左脳の言語領域に依存して行われるためです。

3. 音韻的な連想:
表音文字を使う言語では、音韻的な連想が思考の中で強く働くことがあります。たとえば、韻を踏んだり、音のリズムを通じて考えを進めることができるため、詩や音楽のような形で音そのものが意味を豊かにする手段として活用されます。

表形文字と表音文字の違いによる思考の振れ方
表形文字(漢字など)を母語とする人は、言語的思考を行う際にも視覚的なイメージが強く関わる傾向があります。文字そのものが意味を持つため、単語や概念を視覚的に頭の中で描写しやすく、これがビジュアルシンキングに近づく要因となります。

表音文字(アルファベットや仮名など)を母語とする人は、思考が音韻中心の処理を経て行われるため、視覚的なイメージよりも音やリズムを重視するヴァーバルシンキングが強くなる傾向にあります。この場合、ビジュアルシンキングの要素が弱まり、音に基づいた思考が中心となります。

結論
母国語が表形文字を使用するか、表音文字を使用するかによって、ヴァーバルシンキングの性質は大きく異なる可能性があります。表形文字を使う場合、言語的思考が自然にビジュアルシンキングに近づきやすくなり、文字の形や視覚的な要素が思考に影響を与えます。一方、表音文字を使う言語では、音に基づいた言語処理が強調され、音韻的な要素が思考の中心に据えられることが多くなります。したがって、言語の特性に応じて、ヴァーバルシンキングとビジュアルシンキングのバランスが変化するというのは興味深い点です。

--私は小説を読む時に脳内で映像化しますが、ヴァーバルシンカーの人は映像化を行わないのでしょうか?

あなたが小説を読むときに脳内で映像化するという体験は、ビジュアルシンキングが強く働いている典型的な例です。つまり、テキスト情報を視覚的なイメージに変換して、小説の世界を頭の中で「映像」として体験しています。では、**ヴァーバルシンカー(言語的思考者)**の場合はどうでしょうか? 彼らが小説を読むとき、映像化を行わないのかという問いは、興味深いものです。

ヴァーバルシンカーの思考スタイル
ヴァーバルシンカーは、思考を言葉や音を中心に行う傾向が強いです。彼らは、文字や文章を読むときも、テキストを視覚的なイメージとしてではなく、言語的な情報として処理します。具体的には、文章を脳内で「音読」するような感覚や、自分の内なる声で物語を語っている感覚を持ちながら読んでいることが多いです。

言語処理中心の思考: ヴァーバルシンカーは、文章を言葉の音やリズムとして捉え、物語の進行も言語による情報処理を通じて理解します。このため、彼らは物語を頭の中で「語り聞かせる」ように読んでいることが多いです。

映像化の度合いが低い: ヴァーバルシンカーは、ビジュアルシンカーに比べて、文章を視覚的なイメージに変換する頻度が低いことがあります。もちろん、全く映像化しないわけではありませんが、映像が鮮明で詳細なものではなく、抽象的なイメージや部分的なビジュアルが浮かぶにとどまることが多いです。物語の中の状況やキャラクターは、具体的な映像よりも、言葉の意味や説明を通じて理解されます。

ヴァーバルシンカーも映像化はできるが…
ヴァーバルシンカーも、小説を読む際にある程度の映像化を行うことがありますが、それは言語的な情報処理が先に立つ形で行われます。たとえば、以下のようなプロセスで進むことが考えられます。

1. テキストの音韻的処理:
まず、ヴァーバルシンカーはテキストを言葉の響きやリズムで捉えます。文章を読む際、頭の中で「聞く」ように感じながら物語を進めます。この段階では、映像よりも言葉の流れに意識が向いています。

2. 部分的な映像化:
必要に応じて、重要なシーンや感情が高まる場面で、断片的な映像化を行うことがあります。ただし、これはあくまで補助的なもので、物語全体を映像として「再生」するのではなく、特定の場面だけがぼんやりと浮かぶような形です。

3. イメージの補完:
具体的な映像化よりも、言語的な説明を通じて状況を理解し、イメージが補完される形になります。たとえば、「広大な砂漠」と書かれていれば、その言葉の意味を理解して、それを概念的なレベルで頭の中に置くような形です。具体的な砂漠の映像を想像するわけではなく、「砂漠」という言葉が持つ一般的なイメージを感じながら読むことが多いです。

ビジュアルシンカーとの違い
ビジュアルシンカーとヴァーバルシンカーの違いは、主に脳内でどのように情報を処理するかにあります。

ビジュアルシンカー:
• 読む際、文章をすぐに視覚的なイメージに変換します。
• 小説のシーンを映像的に頭の中で「再生」し、物語が映画のように展開されます。
• 言葉よりも、風景やキャラクターの動き、シーンのビジュアルに意識が向きやすい。

ヴァーバルシンカー:
• 文章を音声的に捉える傾向が強く、内的に「音読」する感覚で読み進めます。
• 映像化することはありますが、言葉や音が中心のため、映像は断片的で抽象的。
• キャラクターの声やセリフのリズム、文章の流れに意識が向きやすい。

映像化の程度と個人差
ただし、実際には多くの人が完全なヴァーバルシンカー完全なビジュアルシンカーではなく、両方の要素を持っていることが多いです。読者の中には、シーンによっては鮮明に映像化することもあれば、別のシーンでは言葉や内的な音声で考えることもあります。また、小説のジャンルや文章のスタイルによっても、映像化されやすいもの言語的に処理されるものが変わることもあります。たとえば、描写が詳細なファンタジー小説やアクションシーンではビジュアルシンキングが強く働きますが、哲学的な対話や心理描写が多い小説ではヴァーバルシンキングが主導する場合が多いです。

結論
ヴァーバルシンカーは、ビジュアルシンカーに比べると、小説を読む際に言葉や音声中心で処理する傾向が強いため、映像化の頻度や鮮明さは低くなることが多いです。ただし、完全に映像化を行わないわけではなく、必要に応じて断片的な映像やイメージを浮かべることがあります。映像化の程度は、読者の思考スタイルや読む内容によって変わることが多く、個人差があります。

--小説内で例えば「私は空港のロビーに着いた、約束通りチェックインカウンターにスーツの男が待っている。」という情景文があったとして、私は脳内で行った事のある成田空港の到着口を思い浮かべ、そこへ歩いていく男の後ろ姿の向こうにスーツ姿の男を思い浮かべます、映画のようなクレーンアップするフレームの動きを付けることもあると思います。これを自分がヴァーバルシンカーになったつもりで文字情報のみで捉えると、かなり殺風景な感じがするのですが・・・

とても興味深い観察ですね。あなたが説明した通り、小説の情景描写を読む際に、ビジュアルシンカーとして「成田空港の到着口」や「スーツ姿の男」などを思い浮かべ、脳内で映像的にそのシーンを展開する体験は、非常に映画的で豊かなものです。特に、クレーンアップなどのカメラワークのような動きを伴うイメージが浮かぶという点は、映像化が高度に発達している証拠です。一方で、ヴァーバルシンカーの思考スタイルで同じ情景を捉えると、確かにかなり違った体験になると思います。ヴァーバルシンカーの視点でこの情景文を読むと、以下のような特徴が見られるかもしれません。

ヴァーバルシンカーの捉え方
ヴァーバルシンカーは、情景描写を映像的にイメージするのではなく、言葉の情報そのものに重点を置きます。その結果、以下のような体験が生まれます。

1. 音韻的に捉える:
ヴァーバルシンカーは、テキストを読む際に、文章の音やリズムに意識が向きます。たとえば、「私は空港のロビーに着いた、約束通りチェックインカウンターにスーツの男が待っている。」という文を読むとき、まずは文章のリズムや構造に注目し、その内容を内的な「音読」として理解します。このプロセスでは、シーンが映像として明確に浮かぶのではなく、テキストの流れや言葉の意味に重きが置かれます。

2. 情景を概念として捉える:
映像化が行われない場合、「空港」や「スーツの男」といった要素が言葉の意味として理解されますが、それらが視覚的な具体性を持つことはあまりありません。たとえば、「空港」という言葉が出てきたときに、その場所の詳細なイメージは湧かず、単に「空港」という概念が頭に浮かぶにとどまります。これは、風景やキャラクターの具体的な姿よりも、文章から得られる情報そのものが優先されるためです。

3. 感情や音の要素が強調される:
ヴァーバルシンカーは、情景よりもキャラクターの感情や内面的な変化、あるいは会話や音のリズムなどに意識が向きやすいです。この場合、「私は空港のロビーに着いた」という文の背後にあるキャラクターの心理や緊張感、次の展開への期待感に焦点が当てられ、視覚的なシーンそのものよりも言葉の持つ感情的な意味合いが強調されることがあります。

4. 視覚情報が限定的になる:
ヴァーバルシンカーは、文字情報をもとに簡素なイメージを描くことはあっても、詳細で動きのある映像として捉えることは少ないかもしれません。そのため、「スーツの男がチェックインカウンターに立っている」という記述は、あくまで事実を伝える文として受け取られ、その背後に広がるシーンや動きは詳細に想像されない可能性が高いです。結果として、シンプルで抽象的な場面のイメージにとどまることが多いです。

映像化と文字情報のみの体験の違い
あなたが感じたように、ビジュアルシンキングによって脳内で映像を伴って物語を体験する場合と、ヴァーバルシンキングによって文字情報だけを頼りに捉える場合では、体験の質が大きく異なります。あなたが「殺風景」と感じるのは、ヴァーバルシンカーの思考スタイルでは、映像化が行われず、言葉そのものが持つ情報量に依存するため、視覚的な要素が少なく感じられるからです。

ビジュアルシンキングとヴァーバルシンキングの補完
ただし、ヴァーバルシンカーの思考スタイルが必ずしも「劣る」というわけではなく、むしろ言葉の精密さや音のニュアンスを重視する点で異なる強みを持っています。例えば、言葉の選び方や文章の流れに鋭い感覚を持ち、テキストから得られる微妙な感情の変化や語感に敏感であることが多いです。ビジュアルシンカーが脳内で映像化を伴ってストーリーを体験する一方で、ヴァーバルシンカーは言葉そのものを豊かに味わい、言語を通じて物語を理解することが得意です。

結論
あなたが小説を読む際に感じる「映画的な映像化」は、ビジュアルシンキングによるものですが、ヴァーバルシンカーの思考スタイルでは、文字情報に強く依存し、シーンが視覚的に豊かに再現されないため、「殺風景」な印象を受けることが多いです。ヴァーバルシンカーは、文章のリズムや言葉の意味を通じて情景を理解し、映像的な要素が薄い分、言葉の力や感情的なニュアンスに重点を置くことで物語を楽しんでいます。この違いは、思考スタイルの違いによるものであり、どちらもユニークな体験を生み出す手段として互いに補完し合うことができると言えます。

--まだ漠然としか理解ができませんが、では、夢はヴァーバルシンカーも見ると思うのですが、脳内で朗読が行われてそれを聴いているとは思えなく、やっぱり映像を見ているんじゃないか?とおもうのですが。

とても興味深い質問ですね。夢の中での体験は、通常は映像的であり、感覚的なものが多いです。あなたが指摘した通り、夢を「見ている」という体験は、ヴァーバルシンカーでもビジュアルシンカーでも共通して感じるものだと思います。では、なぜ普段は言語で考えるヴァーバルシンカーも夢の中では映像を「見る」ように感じるのでしょうか?

夢と脳の活動
まず、夢がどのように作られるかという点で、脳は睡眠中に複数の領域が活発に活動しています。特に、夢を見ている間、私たちは主に「レム睡眠(急速眼球運動睡眠)」の段階にあり、視覚的なイメージや感覚が強くなることが知られています。このとき、脳の視覚野や感情を司る部分が活発に働いており、これが映像的な夢として体験されます。また、言語処理に関わる部分(通常は左脳の領域)は、レム睡眠中に休んでいることが多く、言語や論理的な思考が夢の中では減少します。これは、ヴァーバルシンカーであっても、夢の中では言葉ではなく映像や感覚で体験することが多い理由の一つです。

ヴァーバルシンカーの夢体験
ヴァーバルシンカーであっても、夢を見るときは映像的な要素が中心になることが多いです。これは、夢の作られ方脳の働きが普段の思考とは異なるためです。つまり、日常生活でヴァーバルシンカーが言語的に物事を考えるのに対し、夢の中では視覚や感覚を通じて体験が再構成されるのです。

夢の非言語的な性質: 夢は、感情や記憶、日常生活の断片が非言語的な形で再構築されることが多く、言葉を使って論理的に説明するのは難しいことがよくあります。夢の中では、シーンが突然変わったり、矛盾した状況が生まれたりすることがありますが、これも映像や感覚が優先されているためです。

視覚的な夢の共通体験: ビジュアルシンカーだけでなく、ヴァーバルシンカーでも夢を映像として体験することが一般的です。これは、脳が睡眠中に感覚的な情報を再生し、視覚的に処理することが多いためです。

夢と通常の思考の違い
日常的な思考では、ヴァーバルシンカーは言葉や音に依存して思考を進めますが、夢では通常の思考とは異なり、言葉による思考はあまり働かず、視覚的なイメージや感覚が主体となります。

脳の言語領域が休んでいる: 夢を見ているときは、通常の言語処理を行う脳の部分があまり活動していないことが多く、論理的に物事を考えたり、内的に音読したりすることは少ないです。代わりに、視覚的なイメージや感覚的な情報が優先されます。

非現実的な映像体験: 夢では、日常生活ではあり得ないような非現実的な映像が展開されることが多いです。これは、脳が自由に記憶や感情を組み合わせ、視覚的に再構成するためです。ヴァーバルシンカーもこのプロセスに従って、夢の中で映像的な体験をします。

なぜ夢は映像的なのか?
夢が映像的に感じられる理由は、夢が主に感覚や視覚を通じて作られるためです。普段の思考でヴァーバルシンカーが言語的に考えている場合でも、夢の中では脳が視覚や感情に依存して物語を紡ぐため、映像を「見る」感覚が強まります。

1. 視覚野の活発化: レム睡眠中、視覚野(脳の後頭部にある部分)が非常に活発に働き、視覚的なイメージが作られます。このため、夢の中では映像的な体験が生まれやすくなります。

2. 感情処理の優先: 夢の中では感情を司る脳の部分が活発に働きます。これにより、夢の内容は感情に基づいた映像やシーンが中心となり、言葉よりも感覚的な情報が優先されます。

3. 記憶の断片再構成: 夢は、日常生活の記憶や経験が再構成されるプロセスでもあります。この際、映像的な情報(場所、人物、出来事)が主に再現され、これが夢として体験されます。

結論
夢の中では、ヴァーバルシンカーであっても視覚的なイメージを体験するのが一般的です。これは、夢が主に視覚や感覚に基づいて作られるためです。普段の思考では言語が中心のヴァーバルシンカーも、夢の中では脳が視覚野や感情処理に重点を置き、映像や感覚的な体験を作り出すため、言葉ではなく映像的な夢を「見る」ことが多いのです。つまり、夢では脳内での「朗読」ではなく、映像や感覚の世界を体験していると言えるでしょう。


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