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「教えるのが好き」の中身 自分の場合

noteには、オンラインで日本語を教えている人の記事が結構ある。
中には「こんな人がオンライン日本語教師に向いている!」などと題して、その中に「教えるのが好きな人」と書いてあるものもある。
 
わたしは、「教えるのが好き」
だと思うけれど、
「教えるのが好き」
とは、いったいどういうことを言うのだろう?

「自分の知っている知識を伝える」
ってこともあると思うし、
「上に立って指示する」
というイメージを持つ人もいるかもしれない。

私は、どちらかというと「知識」を蓄えるタイプではないので、
「知識を伝える」のは得意じゃないし、
上下関係より「学びの伴走」と思っている。

じゃあ、私の「教えるのが好き」って、
つまりどういうことだろう、とつらつら考えると・・・

変な表現かもしれないけれど、
学ぶ人が乗っている学びの魔法のじゅうたんに一緒に乗って
その絨毯の飛び方の癖とか、乗り手の癖とかを、傍で見ながら、
相手が今思っていることを想像して
気持ちに沿った語りかけをしながら、
都度都度、こう操作するとやりやすいかも、あっちにも一回飛んでみたら楽しそー、
なんて、一緒に飛ぶことを楽しんで
そしていつの間にか、その人が一人で絨毯を自由自在に操れて、
まるで、一人で飛べるようになったかのような気にさせて
場合によっては、その人も他の人に飛び方を教えられるくらいになるまでなって、
「楽しかったねー。ありがとう。じゃぁね〜」
と、絨毯を降りる、
というか
そういうイメージかなぁ、
そういうことをするのが楽しいんだな、きっと。
それが私の「教えるのが好き」なんだろうなと思う

「気持ちを想像して、それに沿う」
それをしながら
「学びという絨毯を扱えるようになって、空高く自由に飛べるレベルにさせる!」
っていうのを、計算づくでやるのが面白いんだろうなぁ。

脚本て、書いたことないけれど、

あちこち伏線を置きながら、
飽きさせないように展開して、
しっかり伏線も回収してスッキリさせながら、
目指す着地点まで気持ちを運んでいって、
最後「やったー」
と思わせるというような?
それが、脚本を書くということなら、
シナリオライターの面白さを、
「教える」ことに感じているんだと思う。
そして、演じるのもやっちゃう。

初めは、「今日の学びの絨毯はどの位置に置いてあるか」を考える。
授業をスタートする時点の、学習者の「気分」や「頭の中」を想像するのだ。
中学生を教えているときは、学校行事や部活イベントなどは授業前にチェックしておいて、「今のみんなの気分は、こんな感じかな〜」「すると、こんなネタで話を振ると、乗ってきて喋ってくれるかな〜」などと考えて、授業第一声を決める。頭の中と口を動かしてもらうためのアイスブレイクだ。
これで、絨毯は地面を離れて、浮く。

「前回、こんなことをやったけど、◯◯って思わなかった?」
「ここ、めんどい、って感じなかった?」
などと、
授業内容に入っていくときも
「知っていますか?」「覚えていますか?」を試すのではなくて、
記憶喚起の刺激を与えながら、
その学習者の「気分」の方に、こっちが寄っていく。
「あああ、そうそう!」
少し浮いていた学習者の思考の絨毯が、学習内容の「風」にふわりと乗る

そうしたら、風に逆らわないようにしながら、でも突風に乗せないようにしながら、
ふわり
さらり
と思考の絨毯を動かしていく。

そういうことを
授業準備として
「どうデザインしようかなー」
と、
学習者の気持ちになったり、
今日行くべき場所(会得すべき知識やスキル)をしっかり握ったり
そこに「ウケ要素」を入れたり
ピリッと緊張させる要素をつっこんだり。
あちこち、自分の視点を変化させながら、
シナリオを膨らませていく。
そういう時間もとても好きだ。


あらかじめ作り込みすぎると、失敗するところは
「舞台は生物」
みたいなところもあるかなぁ。

で、最終的に、伏線回収までして、時間にぴたりと終わらせる
場合によっては、シナリオを変更して、次につながる着地点にうまく降りる。
これまた気持ちが良い

学習者が「今日も夢中でうまく飛んだぜ」という顔をしていたら、もう最高である。

で、
最終的には、
客観的な「成果」も出す
。←これ重要。

自分が
「教えるのが好き」
と思うのは、
そういうところだと思う。

だから、それができない
例えば、教材も教える順番も決まっていて、それをなぞるようなものは、
苦手で好きじゃない。
幸い、
今まで経験してきた「教える現場」は
自分の好きにしていいというのがほとんどだったので、
楽しめているんだろう
なぁ。


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