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ドラマ感想
遅くなりつつ、津田梅子のドラマ見た。
なんだろう、今の日本女性とももちろん当時ほどの厳しさはないかもしれないけれども、いまだに重なる部分もあったかと思う。内容は当時の北海道開拓使の黒田清隆ら中心となって編成された女子留学生制度に参加した女子たちのドラマである。なかでも津田梅子、瓜生繁子、山川捨松にスポットライトがあてられていた。
国に恩返しがしたいと切望しながらもその国に自らの女性というアイデンティティで認められず、失望しながら海外で活路を見出した津田梅子。
自分のアイデンティティと持てる影響力を把握しながら、日本で家庭と仕事を共にした瓜生繁子。
津田梅子と同じように国に恩返しをしたいと切望しながらも、やはりその認められずに、愛する人と日本で後方支援的に女性活躍支援を資金的にも援助した山川捨松。
このドラマを見て私は3点感じたことがあった。1点には、学ぶことの大切さ。最初は梅は6歳でアメリカに父に半ば自我もないなか、放り込まれるように送り込まれたかもしれない。でもそこで経験した学ぶことの楽しさ、どんな風に生きたいかというロールモデルを見ることといった貴重な経験は生涯、忘れられないものとなった。だからこそ、三者三様の人生だけれど、それぞれが譲れない部分があって、そうしたものが生まれるのことこそ、学ぶことの大切さだと思った。
自分でえらぶということ
人生は意外と他人の声に惑わされるものだと最近思う。それが悪いだけのことではない。人は他人との関わりのなかで生きているのだし悪いことだけではないのだ。けれども、自分の中に何が大事に思っているのか、自分はどのように生きたいのか、自分はどんな生活をしたいのかといったことが主体的に選択できないと、どんどん人生は他人の思うように流されて消費されるものだというのも事実だとも思う。3人はそれが自分の中にきちんとできていた。津田梅子は何よりも学問を続け、女性のための学校を作りたいという夢が譲れないものだった。瓜生繁子、山川捨松もやはり譲れない愛する人、教育への情熱、学問への情熱が程度はちがったかもしれないがあったように思う。だからこそ、彼女たちは自分の意見もきちんと当時としては珍しく傾聴くれる人を自ら選んで幸せになったのだと思う。これが当時の一般的な日本女性のように家の決めたお見合い相手と普通に結婚ならば、そうはならなかっただろう。
多くの選択肢から自分に譲れないものを自覚し、守り育てること。それはロールモデルを見てこういう人でありたいと自覚し、そのために主体的に学ぶ意欲をもって初めてできることだ。日本での津田梅子は、主体性がない日本人女性生徒に心底失望していたが、当時の日本ではそういった日本女性のロールモデルもいないし、津田梅子のように留学することのできた女性は本当にレアケースであり女性が結婚せずに学び続けるといった選択肢はないに等しかったため、生徒は主体的に学ぶことに意欲すら感じなかった。
教育という可能性
2つ目に、教育というものの大切さも感じた。女子留学生というその当時の政府が思いつき程度に始めた政策であったかもしれないが、当時の留学生家庭の先見性もあり、その機会に世界を見れた女子留学生の人生は、当時の日本では生きにくかったのも事実であろうが、見なかったものとは天と地と程生き方が違ったのではないか。生きにくかったのも事実だと思うけれども、一方でその経験はとても大切な自分の核を作ることとなったため、みんなその経験を次に伝える教育、「学校づくり」をあきらめなかった。
貫く強さの先に
3つめは、自分の人生を生きるものは世間をも凌駕していくという事実である。津田梅子の最期の言葉は「storm last night」、「昨夜は嵐」。この言葉を聞いたときに、「赤毛のアン」の最後にあるセリフ、「神は天にあり。世はすべてよし。」を思い出した。同じような自分の人生への充足感、満ち足りた満足を感じた。思えば私は25歳くらいの時には、自分の人生を生きているのにその人生をコントロールできないような感覚にすごく悩まされていた。今はもうそういったアンコントロール感にもある意味、諦めも感じて楽になったのだけれども、あの時に人生を終えていたらさぞ悔いが残ったろう。
私も最後にどんなことがあれど、どんな曲がり角があろうと、自分の人生に満足感をもって終えたい、そのように思った。