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【翻訳】TNO開発日誌23:オデュッセイア(前編Part1)

原文はこちら、2021年の春に公開されたものです(https://www.reddit.com/r/TNOmod/comments/nbmze5/development_diary_xxiii_the_odyssey_part_1/

この文章は前編をさらに二分したうちのPart1です(それでも8000文字ほどはあります)。
前編のPart2はこちら(https://note.com/fred409/n/n3258ace34757
後編のPart1はこちら(https://note.com/fred409/n/nfa782f4fca20
後編のPart2はこちら(https://note.com/fred409/n/n4e80bb2d9cef

こんにちは。私はPenelope's Webを統括するBambaです。この開発日誌:オデュッセイアを公開できることに興奮しています。これが丸二年を通して我々の公開する初めての開発日誌です。
今回は地中海を巡るオデュッセウスの冒険を追う形で進みましょう。イタリア、ギリシャ、そしてトルコについてです。そして後編ではマルタ会談後のコンテンツの内最初の一年を見ていきます。マルタ後のイベントとは、このMODでの最初の主要国間戦争である伊土戦争です。

この開発日誌は愛おしい労働の成果です。50人以上のコーダーとライターからなる最高のPenelope's Webチーム、そして忘れてはならない素晴らしいアーティストチームの働きです。私はさらに個人的にPenelope's Web内の各国家の統括者にもお礼を申し上げたいです。フランス関係を纏めるAtomicFalco氏、トルコのVolkrel氏とVarflock氏、ギリシャのCitoyen Helix氏とライティングチームを纏めるEpochPirate氏、Baron Steakpuncher氏です。
最後になりますが、この開発日誌を私と共に書いたAnarchOfEumeswil氏、 Pikeman氏、Targai氏、EpochPirate氏とFausting氏にも感謝をお伝えします。
前置きはこのくらいにして、三頭連合の世界、地中海へ入りましょう。
私達の「オデュッセイア」は1962年のアンカラから始まります……

Penelope's Webでのオープニングスクリーン

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ようこそ。また会いましたね!私はTNOのトルコのデザイナー兼ライターのFaustingです。数ヶ月にわたるトルコチームの成果を公開できることを非常に嬉しく思っています。この物語は地中海に面するアナトリアの暖かい海岸から始まります。いくらかは古代からの海岸線を残していますが、少し遠目に見れば、古くからの海岸線とアトラントローパによって作られた海岸線とのかすかな境界線も見つけられるでしょう。この海岸は日々そのアイデンティティを失っているトルコという国家のメタファーなのです。

トルコ共和国

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1923年に建国されたトルコ共和国はアタトゥルク時代から大きく変化していますが、変わっていない部分も少なくありません。私達の物語は1938年にイスメト・イノニュ将軍が大統領に就任した時点から始まります。イノニュは生涯にわたる盟友としてケマル・アタトゥルクを支えて来た人物であり、熟練の司令官であり、独立した政治家であり、彼のイノニュという姓は彼が二度の勝利を収めた希土戦争の戦場であるイノニュを記念したものです。トルコが独立を勝ち取り宣言した後、彼はその手腕を発揮し有力な政治家としてCHP(共和人民党。アタトゥルクやイノニュらによって創設された政党であり、トルコ共和国を統治した唯一の政党)に所属し、国家資本主義と反体制派への強硬姿勢を支持して数度首相職を務めました。

イノニュの経歴には様々なエピソードが満載です。首相職解任の引き金となったとされる1937年デルスィム反乱鎮圧への拒否、クルド地域を軍の監察下に置き少数民族を国外追放に追いやることに繋がった1925年の「東部改革のための報告書」の統括、1938年にイタリアのムッソリーニを模倣したトルコ版のファシズム大評議会を作ることを決めた法律への署名。最後の一つはアタトゥルクによって即座に拒絶されてしまいました。アタトゥルクは繰り返し「我々の首相は受け取った報告書に目も通さずにサインしているようだ」と主張し、イノニュが外交のためローマにいる間に提案を却下しました。

それでもなお、イノニュの安定した手腕、謙虚さ、天性のリーダーシップは類い希なるものであり、誰もが認めるものでありました。1939年のドイツの対ポーランド宣戦が巻き起こした激動の嵐に対応できた政治家は世界でも片手で数えられるほどしかおらず、トルコ共和国はイノニュがその一人であったという幸運を噛みしめていました。独立戦争で払った大きな犠牲の苦い記憶のために当初は中立を保ちながらも、イノニュはヨーロッパでの戦争の展開を注意深く観察し続けました。ドイツとイタリアが緒戦で勝ちを重ねる中で、ローマとベルリンの側にたって参戦すべきだという声は日に日に大きくなります。トルコ政府の人物を片側に、アンカラのヒトラーやムッソリーニの大使をもう片側に付けたテーブルでの緊迫した交渉の末、戦争の最後の最後でイノニュ大統領は連合国とソビエト連合への宣戦を発表します。トルコ軍はシリアの砂漠とカフカスの山々を進軍し、共和国が建国と同時に様々な条約でロシア、イギリス、フランスに割譲させられた領土であるミサク・ミリ(オスマン帝国議会で決定されたトルコに属するとされた土地)の土地全てを要求しました。レバントやカフカス、バルカンの広大な土地一帯が直接トルコ国に編入されます。トルコは若き共和国として戦争に参加し帝国として終戦を迎えたのです。

それからというものの何もかもが上手くいきませんでした。西の古き帝国達に共通の病がトルコが新しく得た覇権にも降りかかります。ドイツとの協力は大失敗で短命に終わってしまい、トルコに残されたものといえば投資の一切が途絶えたことによる経済の停滞とエーゲ海に見渡す限り広がる塩漬けになった平地だけです。両国の緊張は限界まで高まり、西ロシア革命戦線のヴォロシーロフ元帥がドイツとの戦争に突入する前夜にはトルコ大統領の名で1930年代に共に過ごした日々を愛情を込めて懐かしむような手紙を送った程でした。

一つめは戦時下で作られた友好関係は平和な世の中には耐えられなかったということでした。そしてマルタ会談がやってきます。イタリアとトルコの間のたくさんの、本当にたくさんの国境紛争と、遙か昔からの互いへの不平不満から目を逸らしながら、イノニュはイタリアの主導する三頭連合へ加盟しました。この決断が初代ドゥーチェであるムッソリーニとの個人的な友情に後押しされたものであることは間違いありません。三頭連合は崩壊しつつある経済を一時的にでも延命させ、地中海を越えて新しい同盟国を与えてくれましたが、互いに反感と憎悪を抱え合った状態で薄氷の上に成り立っていました。イタリアはシリアとレバノンで国境を再策定したり、エーゲ海でドデカネス諸島を占領しキプロスのギリシャ系勢力を水面下で支援したりしていましたし、何よりトルコとスペインの貿易がスエズに依存しているのをいいように利用し搾取するという不当で帝国主義的な態度をとっていたのです。

国内でも共和国は変わっていました。占領されたヨーロッパでの権威主義的支配の慣習はアンカラでも確かにその痕跡を残していました。帝国は広大な領土を有していますが、トルコが支配を打ち立てようとしている土地の人々はどんな手段を使ってでもトルコの影響力を払おうと固く決意しています。新しい領土とその天然資源から得られるはずだった利益もドイツの投資が地中海の沿岸と共に干からびたために殆ど相殺されてしまいました。CHPは不満を抱えた大衆と地方での公然とした敵愾心、そして不安定な権力に苦しんでいます。軍や国民主義団体内部の味方に訴えかけることで対処しようとしてきましたが、彼らもまたいつ党の支配を脅かすかわかりません。長年に渡り大統領や閣僚達が必要にかられ、あるいは恐怖にかられて制定した法と政令、提案の数々によって共和国はその政治体制を何とか維持してきましたが……無傷だった訳ではありません。

ケマル主義に逆行するとされるいかなる法をも拒否する権利を持つファシズム大評議会が大国民議会の機関として再導入されました。軍はさらに権力を肥大化させ、軍に忠実であったり軍の支持を受けたりする議員は多く、しばしば内閣にも参加するようになってきました。少数民族の権利は20年代のレベルにまで巻き戻ってしまい、「改革のための報告書」は改定され政府の公式方針として掲げられ、少数民族の県では、大統領曰く「安定を取り戻し将来の民主的政治参画の機会を築くため」全ての文民の権利が大幅に制限されました。イノニュ政権は民族主義、国家主義、軍国主義の三つの柱に支えられて生き長らえています。この3つの中にCHPも勝利の方程式を発見したようで、CHPは20年間選挙では無敗で、真の民主主義の枠組みを維持しています。権威主義を指向する風潮を特徴とする運動の一つにトュルハン・フェイジオールー(Turhan Feyzioğlu)の率いる信義党(Güven Partisi)があります。イタリア式ファシズムの血を引く民族主義が横行する中で、イノニュの新生共和国を鋳造するにあたって大きな影響を及ぼしました。

政治エスタブリッシュメントも全員がこのような展開に喜んでいたわけではありません。不満を抱える人々の中でも最も有名なのはジェラル・バヤルとその周辺でしょう。バヤルは1937年にイノニュが解任された後に首相を経験しました。経済的にも政治的にも古典的自由主義の提唱者である彼は大統領の政治的ライバルであり、1948年には戦後行われた改革への反対を示すために彼の少数の盟友とともに議員職を公式に辞任しました。辞任は大統領の慎重な反応を引き起こし、バヤルは議会へ戻り「政権には忠実な反対派(Loyal Oppsition)」の代表者として振る舞うことを条件に自身の政党である民主党を設立することも許されます。譲歩を勝ち取ったバヤルと彼の新党は受け入れられ、それ以来CHPが過半数をとり続けながらも議会では膠着状態を演じていました。ある時信義党と民主党は右派政治運動であるUDP(Ulusal Demokrat Parti、国民民主党)を結成しました。この同盟の発表式を兼ねた決起集会において、新聞ルミノシティの創設者にして編集者として知られるヒクメット・キヴィルシムリ(Hikmet Kıvılcımlı、読みに自信なし)が暴力的プロパガンダに走りました。ジェラル・バヤルとトゥルハン・フェイジオールーが射撃され、バヤルは一命を取り留めたもののフェイジオールーは即死してしまいます。この事件が右翼を過激化させ、ついにCHPによって信義党は解散させられ所属政治家らは政界参加を禁じられてしまい、また同時にTKPのような左派集団にも国家規模で弾圧が加えられました。

その後思想を穏健化させたUDPですが、経済、政治体制を自由化させるという公約が功を奏して大衆の間で次第に支持を集めていきます。しかしそれでも体制を敢えて直接揺るがそうとはできませんでした。政治スペクトラムの両端による無政府状態への恐怖や、さらにいえばバヤルが1937年に弾圧したような少数民族による反乱という脅威が放置されてきたからです。

グルジア人、トラキア人、ギリシャ人、アルメニア人、そしてアラブ人は地域のトルコ人守備隊による弾圧を日常的に体験しており、アンカラの政府に対する反感は深いものでした。特に地域の経済資源がトルコ人の故郷を富ませるために搾取され殆ど残らないという状況下では、彼らにとってアンカラ政府もイタリアのファシスト政権も何も違いがありません。状況は1950年代、イラクのカーシム革命政権がイタリアに攻撃されトルコが介入した際にさらに悪化しました。ローマの要請に応じ、トルコ内の熱意に溢れる民族主義者がイラクのクルディスタンへの介入を主張しました。イタリアの幸運はすぐに終わり、カーシムはイタリアの利権を尊重するという名目を条件に平和を手にし、トルコは首尾良くクルディスタンの支配を握りました。アンカラの後援でバルザニの下部族軍閥の指導者達が緩衝地帯の平和を維持する代表者に選ばれ、地域の石油資源がもたらす富はトルコに流入するようになりました。これで最後のミサク・ミリの土地がトルコの支配下に収まったのです。

少数民族の騒乱が頻発し、鎮圧のたびに国家はどんどん抑圧的な方法に頼るようになっています。軍国主義への偏重はすぐに軍や復権してきた右翼の支持を受ける政府の派閥を成長させました。1962年には大統領という肩書きは殆ど口にされなくなり、「ミッリー・シェフ」というより威厳ある肩書きが代わりに使われるようになりました。

こうして、ミッリー・シェフは1962年をトラブルまみれの中迎えます。停滞した経済、CHPの数十年の圧倒的な選挙結果と40年の統治に対する増大しつつある大衆の不安、そして上記の通り悪化し続ける状況。

トルコの最初の国家方針ツリー

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国内外の問題が共和国を待ち受けていますが、最初の問題は儀礼的ではあるものの新首相の任命です。ファフリ・サビ・コルテュルクの選択がイノニュの最も喫緊の問題を暗示しています。コルテュルクは三頭連合内で活躍してきた歴戦の外交官で、イノニュはトルコの国際的な立ち位置を主張し強化するために就任したての首相を外遊に行かせることを選びました。とりわけローマとゲルマニアがアジェンダを特徴付けます。

国外問題が一段落するとイノニュは今度はトルコ国内の問題に再び目を戻します。トルコ経済はアトラントローパの悪夢からしばらく方向性を失っていましたが、長年の準備の末に政府はついに新しい構想を受け入れる体勢を整えました。国家資本主義経済の復活を渇望する左翼改革派のものでもありますし、イノニュの国家資本主義政策への反対から長い間弾圧されてきた(ひた隠しにした絶望から来るものではありますが)UDPと協調した自由市場経済主義者のものでもあります。しかし地中海の災難に続く政府支出を安定化させるために厳しい財政規律が守られてきましたし、進展があったとしてもしばらくの間は緊縮財政を取り続ける必要があるでしょう。

イノニュの道を塞ぐ最後の障害は共和国を建国以来苦しめてきたものです。年中止まない騒乱はその起源をクルディスタン地域に持ちます。イノニュ政権の支持率を高め安定度を確保するために、イノニュは分離主義の脅威と体勢への反感を押しつぶす手段として民族主義の枷を外しました。国家とCHPは一体となり、ミッリー・シェフへの反対は反逆を意味するようになりました。このアプローチは現在の所秩序を保つのに機能していますが、軍や政界の民族主義者達の影響力の増大という代償を大統領は快くは思っていません。さしあたり脅迫という古典的政策で納得しなくてはならないでしょう。

最初の年のイベント群

イタリア帝国

私はイタリアと三頭連合の主席デザイナーのAnarchofEumeswilです。今日はPenelope's Webのイタリアの最初の年といくらかをお見せしましょう。
ローマの空気は重く、湿っていて、そして抑圧的です。この雰囲気が古風な街並みに充満しモニュメントを霧に包み、40年もの間ローマに留まっています。夢見たものよりもさらに多くを勝ち得た政権の勝利と行進、壮大な光景にもかかわらず空気はますます重苦しくなるばかりです。三つの大陸にまたがる大ローマ帝国という栄光の夢は現実のものとなったのでした。ベニート・ムッソリーニ、現代のカエサルは彼がイタリアに見いだした帝国の運命を叶えたのちに去りました。ですが、彼は本当の意味では死んではいないというものもいます。実際ムッソリーニの義理の息子であり選び抜かれた後継者でもあるガレアッツォ・チャーノは、義理の父が創造したものを少しでも変えることを嫌っているようです。公共の場では彼の態度はムッソリーニとファシズムへの揺るぎない忠誠だと叫ばれていますが、私的な場所で、かつファシストの秘密警察が聞き耳をそばだてていないと確信できる場所では同じ者が停滞や現状追認主義だと、あるいは政治的麻痺や異常なまでの無能さだと囁かれています。ドゥーチェ自身はそれを「洗練されたファシズム」だと呼んでいました。

イタリアの最初の国家方針ツリー

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チャーノのアジェンダは盛りだくさんです。帝国の辺境の地には大いなる可能性が秘められていますが、未開発のまま放置されています。経済計画と国家資本による航空会社の拡大はイタリアの支配下にある広大な領土をつなぎ止めるのに有用でしょう。政権の生命線である石油は流入を続け、ファシストの産業団体やイタリアの農業の成長はイタリア経済の有機的発展を進め続けるはずです。外交政策においては、日本や他の三頭連合諸国との同盟がドイツの敵対的姿勢からイタリアを護るために再確認されることとなっています。最後は国内政治に関してです。チャーノの政権を全ての脅威から守ることが最大の重要課題です。王宮もゲラルキアも監視の目を緩めるわけにはいきませんし、政党や政府の中で重要な立場にはチャーノだけに忠誠を誓う人々が就くようにしなくてはなりません。ファシストの秘密警察であるOVRAがファシズムのもたらした平穏と秩序を守るべく疲れを知らずに動いている間にも、イタリア政府が成し遂げた成果を世界へ示すべく毎年偉大なリットリアーレが組織されています。常にファシストの大義に忠実であったチャーノは1922年の遺産を40年たった今でも永続させようとしています。

実際、その信念の殆どはムッソリーニから受け継いだものであるとはいえ、チャーノは強い信念を持つ男です。彼は政治人生をムッソリーニの遺産を保存することに捧げました。国家ファシスト党からの非難の声を沈黙させ、「信頼できる人物」で周囲を固め、様々な手段で政敵を排除し、ムッソリーニの意図したように閉鎖経済政策と全体主義的一党独裁体制を続けています。ムッソリーニが死んでから数年が立ったにもかかわらず、いまだにチャーノはムッソリーニの古い演説の音源に心揺さぶられ涙していました。チャーノを通してムッソリーニの存在はイタリアの街並みに残り、その声は国中の宮殿や家々の壁に響き渡っています。ファシスト政権はモノリスのように、歴史的意味のある装飾を持つ巨大建造物のように厳然と聳え立っていて、非効率性と無能力、全体的な腐敗は全て暴力と抑圧、テロルによって覆い隠されていました。

イタリア初年度のいくつかのイベント

エチオピアへの介入もイギリスに対する最終的な勝利を祝う式典と壮大なパレードも同様に、全てのイメージが数千のイタリア人がバルカンの塹壕で流した血とイタリア兵士が命令に従い働いた残虐行為を輝く黄金のように覆い隠しました。イタリア占領地での身の毛がよだつような現実とは裏腹に、イタリアは自国を他の枢軸国の同盟国やライバルのドイツに比べ「人道的」な国家であると繕おうとしています。ムッソリーニが「並行戦争」構想を実行に移した時点からイタリアはドイツと並行して戦争を行っていましたが、決してドイツと共に戦争を戦っていたわけではありません。鉄の同盟で結ばれていたはずの二つの大国は、それぞれのヨーロッパにおける勢力圏を巡って血で血を洗う闘争に身を投じることとなってしまいました。イタリアは地中海やバルカン半島での勢力圏を作り上げることを目的としているのに対し、ドイツは自身をヨーロッパにおける並び立つもののいない覇権国家であると見なしています。それでも、世界最先端とは言えない兵器、恐ろしいほどに不効率で政治家された軍、巨大な困難を克服し、ローマは帝国という野望を実現し、領域を拡大し地中海全体に傀儡国家を設置しました。

スタート時イタリアの新しい傀儡国家

1939年に最初に占領され保護領となったアルバニアは、第二次世界大戦を通してかつてのセルビアやブルガリアの領土のアルバニア人地域にその国境を広げました。ユーゴスラビアから切り離されイタリアの傀儡国家となったモンテネグロは、未だにパルチザンを抑え込むのに失敗し続け、消極的な君主によって支配されています。フランスの軛の下からイタリアの軛の下へ移ったチュニジアは隷従状態から抜け出せることはできないでしょう。地中海の長大な海岸線を見てみれば、トリコローレがはためく土地というのはほんの僅かでしかありません。

イタリアの征服した土地の中でも、ギリシャがイタリア人の犠牲を最も多く払った土地でありました。様々な点で第一次世界大戦の塹壕戦の恐怖を思い出させるような険しい作戦の末に、イタリアはギリシャの英雄的な抵抗を打ち破りました。しかしそれでも、ギリシャの人々はイタリアとその傀儡政権に対して今なお闘争を続けています。

ギリシャ国

以降はPart2へ(https://note.com/fred409/n/n3258ace34757)

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