第10話 武士道
発達した太平洋高気圧が日本上空をすっぽり包み込み、七滝ダム上空はカラリと晴れ渡っていた。青々と水をたたえる湖も徐々にその水位を下げ、水底がすっかり露わになっていた。僕は、乾いてひび割れた岸辺に立っていた。僕は水底のごみを拾いに来た。以前、平沢さんに教わったキャロライナリグを根掛かりで失ってしまった時、湖底にゴミを残してしまったことが未だに心を痛めていたからだ。
僕は「段々畑」に行った。ダムができるより昔、このあたりにも小さな集落があったそうで、その名残で水中には石垣が残っている。水位が高いときは、ちょうどいいシャローフラットやハードボトムのブレイクになり魚がよく釣れるのだが、足場がいいためにオカッパリの人気もある。そのため、石垣のブレイクによくルアーが根掛かりしてしまうのだ。
歩くたびに、太陽に照り付けられた粘土質の地面がザクザクと音を立てひび割れる。下を注視しながら歩いていると白く濁ってくたびれたフロロカーボンのラインを見つけた。あぁ、僕の使ったラインだ。僕はそのラインを引っ張りながら先をたどる。ラインは地面を割いて現れながら沖の方へと続いていった。石垣とそこに食い込んだ14gのタングステンシンカー。そして、水を吸い込んでブクブクに膨れ上がったスワニークローが姿を現した。
丁寧に石垣から外し、ビニル袋の中へ入れた時に自分が七滝へかけた負担と罪悪感が少し和らいだような気がした。そのままゴミを拾いたまに釣りをしながら僕は再びヨロヨロと歩き続けた。ほんの数10分でビニル袋がいっぱいになった。湖底には、こんなにゴミがあったのかと驚いた。
バッグからペットボトルを取り出し、乾いたのどを潤した。魚は釣れなかったが、気持ちいい達成感があった。小さい頃の僕は、親に喜んでもらえるよう、勉強し、大学を目指し、上司の言うことを聞き…そんな思考停止状態だったからだ。
そしてそれは、釣りでも同じだった。SNSでチヤホヤされたくて、大きな魚を釣りたくて、一生懸命、魔法のルアーを探していた。そしてルアーを投げていた。「人の言うことをよく聞き、誠実な人間でいる」を小さい頃から演じ続けてきた結果、恐らく僕は内なる自分を抑え込んできたんだろうか。僕は心からやりたいことを我慢し続けたんだと思う。
拾ったゴミを、プロショップななたきへ持っていく。ここではフィールドで出たごみを持ち込めば、その重さに応じてポイントを押してもらえるのだ。まぁ、ポイントが無くっても僕はゴミを拾っていたが。
「やぁ、雪平くん。ゴミ拾いだね。いつもありがとう。」
平沢さんは、ロッドを作っていた。リールのオーバーホールだけじゃなくてロッドカスタムやビルディング、ルアーのリペイントまでこなすそうだ。ボート屋の店主は好きが高じてなんでもやってしまうのだ。平沢さんはライターでロッドの先端に着いているガイドを炙っていた。エポキシ樹脂を溶かし、ガイドをブランクから外していた。ガイドを外し終わりロッドを片づけると、平沢さんは僕の方へ来て、レジの椅子に腰を掛けた。
「先日、キャロをひっかけちゃって、そのシンカーやラインを拾ってきたんです。見つかってよかったです。」
僕はゴミ袋を差し出す。このゴミ袋はプロショップななたきのオリジナルで、ロゴには「私はゴミを拾うアングラーです」とメッセージが書かれている。この袋に入ったゴミだけがポイントの対象だ。
「そうか、それはお疲れ様。それにしても随分たくさんゴミを拾ってきたね。いいことをすると、気持ちがいいだろう?」
「はい、本当にそう思います。魚は釣れてないんですけどね。自分のゴミが残ったままというのが、どうも嫌で。」
そう、魚は釣れていなかったけど、気分はよかった。魚が釣れないのなんて日常茶飯事だから別にいいんだけど、目の前にあるゴミを拾わないのは何だか嫌なのだ。それが自分のゴミなら、なおさらだ。
「素敵じゃないか。それは、廉恥心というんだよ。」
レンチシン?とは、人として恥ずかしいことはしない、ということだそうだ。平沢さんは続けた。
「人の目を気にしなさい、ということですか?」
「うーん、少し違うかもな。人の評価ばかり気にしなさいというわけではなく、自分自身を内省する基準にしたらどうだろう?何か、やりたいことがあったとき、それは自分の大事にしているものに泥を塗る行為にならないか、恥ずかしくないかを考えることかもしれないな。」
人が見ているから、正しい行動をする、人が見ていないなら、やらない。これでは駄目なのだ。正しいからやる、これだけなのだ。
「麦茶かコーヒーでよければ、飲むかい?」
「ありがとうございます。麦茶、いただけますか?」
平沢さんはカードにスタンプを押すと、店の奥へ引っ込んでいった。その間、僕は平沢さんが作ったロッドを眺めていた。店舗の奥には土間続きで工房がある。その中にはロッドスタンドがあり、ロッドが何本も並んでいた。
その中に、一本だけリールが取り付けられていないロッドがあった。誰かに依頼されたものだろうか?僕は工房の中に入り、そのロッドを見る。リメイクではなく、全てのパーツを取り寄せて1から作り上げたように見えた。長さは7フィートをゆうに超えている。ガイドはスパイラル状に取り付けられていた。グリップにはコルクが使われ、昔ながらのストレート形状だ。どんな人が、どんな釣りに使うんだろうか。
急に外が騒がしくなった。複数人の笑い声が聞こえる。客だろうか?僕は工房から店舗へ戻った。平沢さんはまだ来ていなかった。呼ぼうとしたが、どうやら外にいた人たちは店に入る気配はない。
僕は気になって外へ出て様子を見にいった。プロショップななたきから湖面へ続くスロープを下った先の桟橋に、2人組が立って釣りをしていた。金髪のアフロにピンク色のTシャツにジーンズ…!僕はそのTシャツに見覚えがあった。釣り動画を配信している人だ。「ビッグベイターB太郎」だ!ビッグベイト1本のタックルのみでの陸からの釣りにこだわっている。もう一人は、黒い機械を持っているし、どうやらカメラマンっぽい。今日は七滝で撮影するんだな。
ビッグベイターB太郎(以降、B太郎)は、上手かどうかと問われたら分からないけど、とにかくトークがおもしろくてルアーのインプレなんかも適格だと思う。ボウズでも自分のやりたい釣りをやるんだと言って、ボウズの動画も案外、多い。
でも、ちょっと待てよ。プロショップななたきのスロープは陸から釣ってもいいんだけど、桟橋の利用はレンタルボート利用客だけなのだ。桟橋もスロープも、所有者はもちろん平沢さんだ。スロープ周辺は足場が良く、初心者のオカッパリのために開放しているそうだが、桟橋の制限には理由がある。勝手にボートに乗ったりいたずらをしたりする人が増えないようにしたいそうだ。平沢さんは店先にその表示をしているんだけど、見落としているんだろうか。イヤな気持ちが込み上げてきた。これがもし、世間に広がれば、桟橋から釣る人が増えてあちらは二人組でこちらは僕一人。しかもあちらは有名な動画配信者で、カメラが回っている可能性がある。
今日みたいなカラッと晴れた水位も低い日は、夏の定番のバックウォーターも枯れ果てている。となれば、水深があるエリアが定番になる。桟橋で釣りたくなるのも分かる気がするが、所有者が決めたルールを破ってまで釣りをするのは、ちょっと違うような気がする
見て見ぬふりはできなかった。僕は、いてもたってもいられずスロープへ向かった。B太郎は、桟橋へ乗り、桟橋が湖面へ落とす影に向かってビッグベイトを丁寧に通している。ルアーをピックアップした時に、僕も桟橋付近へ到着した。B太郎はこちらに気付いた。カメラマンはカメラを下ろした。
「あ、こんにちは…び、び、B太郎さんですか?」
「こんにちはー!ビッグベイターB太郎です。もしかしてオレの動画、見てくれてるんですか?嬉しいな!ステッカーとか、要ります?」
桟橋から降りてきたB太郎は、動画の通り気さくに挨拶し名詞とステッカーまでくれた。パソコンの光る画面の先にいる人が、今、目の前にいる。しかしその人は、ルールを破っているのだ。僕は意を決して言った。
「あ、あっ、あの…さんば、桟橋は…」
B太郎は少し黙った後、カメラマンと目くばせをし、僕に近づいてきた。
「えっ、なんっスか?桟橋が?」
声色が先ほどと全く違う…この雰囲気は本当にまずい。全身の毛穴から汗が噴き出てきた。でも、それでも後には引けなかった。
「いやっ、あの、桟橋って利用者以外は…」
…言ってしまった。もうなるようになれ、だ。
「えー、俺たち利用者ですよ。だって釣りしてるんだもん。」
本当に桟橋で釣りをしていいか分からなければ、僕の話を素直に聞いてくれたはずだ。しかし、それをはぐらかすということは、分かったうえで釣りをしていたんだろう。世の中の動画配信者が全てそうかは知らないけど、やっぱり釣り禁止の池や釣り禁止のエリアで釣っている人はいるんだろう。
という感じで考えていると、2人は僕に近づいてきた。初対面の人間相手にしては、あまりにも近い距離まで迫り、声のトーンは低いまま話し始めた。
「いや、ほらさ。オレの動画のファンって、いっぱいいるンすよ。ちょっとでも、楽しんでほしいンすよ。ね。」
B太郎はあくまでも腰の低い言葉で伝えてくる。いち一般人に対して丁寧な言葉を使ってくるが、なんだか僕は礼儀正しさを演じているようで気持ち悪くなった。僕は無性に腹が立ってきた。
遠くから、女性の声が聞こえた。
「あーっ、こないだそこで釣りしてた人、警察に呼ばれて大変そうでしたよ!」
小柄な女性がスロープへと駆け下りてきた。女性はそのままB太郎に向かって続けた。
「桟橋で釣りしてるのが見つかったら、めんどくさいですよ!ていうか、そろそろパトロールで来る時間ですよ。どうします?」
B太郎とそのカメラマンは、また目を合わせた。
「そっすか。あざす!」
という言葉だけを遺し、スロープを登り走り去っていった。助かった…
あわただしかった桟橋に、静寂が戻った。そして風が吹き出した。
僕は女性を見た。身長は150cm程度だろうか?とても小柄に見えた。カモフラ柄の長袖のマウンテンパーカーに、明るいサックスブルーのジーンズ、カモフラ柄のサファリハットを被っている。大きなウェリントンのサングラスをかけているので、素顔は見えない。女性が近づいてきた。
「あなた、バカぁ?」
女性はいきなり僕に向かって暴言を吐いてきた。
「あなた、桟橋で釣りしてる人に注意したんでしょ?ルールを無視して釣る人たち、かなりヤバい可能性があるし、てか数的不利だし、勝算が無いんなら行っちゃダメでしょ。」
僕はぐうの音も出なかった。勇気を出して行ったものの、どう解決するかなんか思いつかなかった。勇気は、どんなことにもくじけないで行動するというイメージがあるが、落ち着いた心で正しい行動をとるほうが、案外解決できたりする。
女性はひとしきり言うと、スロープを上がろうとした。たとえ女性であっても、助けてくれたことは事実だ。お礼を言わなくちゃ。
「あっ、あのっ、ありがとうございました!」
女性は軽く会釈をして、見えなくなった。僕はひとり、桟橋の近くに立ち尽くしていた。
「あっ、平沢さん…」
そういや、麦茶を取りに行ってくれた平沢さんをほったらかしにしていた。僕は急いでプロショップななたきへ戻った。
「ひっひっ、平沢さん!すみません!」
店の戸を開ける前から平沢さんの名前を呼び、ガラガラと戸を開けた。戸の向こうには、平沢さんと先ほどの女性が話をしていた。
「げっ!」
僕は先ほど助けてくれた女性に、最低な言葉を投げてしまった。