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第7話 チーズはどこへ消えた?
今週は、久々に雨が続いていた。
今日は残業があった。
かなり遅くなりそうだったので、同僚と相談して、晩メシに牛丼のテイクアウトをすることになった。
新卒の後輩が注文を取りまとめて、買いに走った。
牛丼が届くまで、細かい確認作業が続いた。目が疲労してくる頃に、後輩が帰ってきた。
僕の注文した牛丼が無かった。
正確には、人数分の牛丼はあったんだけど、僕の牛丼にはチーズがなかった。
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僕が頼んだのは
「チーズ牛丼の大盛りに温玉トッピング」
だった。
僕の牛丼には、何のトッピングも無かった。
後輩が間違えたのか、店員が間違えたのか。
僕のチーズはどこへ消えたんだよ?
ボソボソ牛丼を食べ、作業の続きを始める。僕の仕事の精度が急降下し始めた。
それにつられて、後輩もミスしだした。
見かねた先輩が、僕を先に帰してくれた。
先に帰る後ろめたさ。
チーズが無かったことへの怒り。
訳の分からないモヤモヤを抱えながら、ふらふらと家路につく。
次の日は休日だというのに、七滝まで車を走らせる気力が無くなった。
でも、釣りはしたい。
久しぶりに手塚池で釣りをしよう。
平沢さんからのアドバイスで見つけた、あの釣りも知っていることだし。
周りが釣れずにアップアップしているのを横目に魚を釣ってやるんだ。
翌日はよい天気だった。
手塚池の開園に合わせて入場し、釣りを始めた。
すでに何人も釣りを始めているが、みんな岸際を狙っている。
ウィードエッジの小さなバスを狙っているんだろう。
僕はそんな釣り人たちを内心ほくそえみながら、ヘビーキャロライナリグを作った。
5/8オンスのタングステンシンカー、3.5号のリーダー、スワニークロー。
お決まりのセッティングを、張り出した岬状の護岸から大遠投していた。
この釣りを知っているのは僕だけだ。
今日も釣るぞ!
昨日の怒りも悲しみも、釣りで癒される。
そう思って投げ続けること、はや一時間。
うんともすんとも、バスの反応は無かった。
おかしいな。
あのスポットは、僕しか知らないはずだ。
一体、何が起こっているんだ?
さらに投げ続けること一時間。
全くバイトが無かった。
シンカーを軽くし、より繊細にハードボトムをなぞる。
リーダーも細くしてみる。
それでも一切、反応が無い。
一体、湖の底では何が起こっているんだ?
僕があれだけ苦労して見つけたんだ。
僕には、魚を釣る権利があるんだ。
愛したこの池に、また裏切られるのか。
僕は悲しくなってきた。
背後でバシャバシャという音がした。
バスとファイトしている人がいた。
なかなかのサイズがありそうだ。
よく見るとその人は、平沢さんだった。
「平沢さんじゃないですか!」
僕は駆け寄った。
「やあ、雪平君。元気にしてるかい?」
今日は土曜日なのに、お店は大丈夫なのか?
しかも、僕に黙って手塚池にまでやってきて。
ちゃんと仕事しなきゃダメでしょ。
平沢さんは45センチほどの魚を釣ったらしい。
何を使って釣ったんだろう?
「何を投げていたんですか?」
僕は焦って早口で話しかけた。
平沢さんは焦らすように答える。
「うーん、。この池はよく分かっていないんだが」
もったいぶらずに情報を教えてくださいよ。
「・・・」
平沢さんは考えていた。
何を考えているんだ?
バスや手塚池のことだろうか。
それとも、なんだ?
平沢さんは喋りだした。
「あくまで僕の予測だが、雪平君はキャロライナリグで釣れていないね。」
的中した。
「おそらく、過去に成功した釣りを何度もなぞっていたんじゃないか?」
これも的中。もう、嫌んなる。
心をえぐられる。
「どうしてキャロを投げていたんだい?」
僕の答えは、平沢さんに呆れられるようなものしか用意できなかった。
「こ、この間、釣れたからです。」
平沢さんは黙り込む。
「そうか。」
一言だけ返事をして、平沢さんはタックルを置いた。
「いい思いをしたらそれにしがみつきたくなる。そんなの、当たり前だよ。」
思いのほか、平沢さんは察してくれた。
「雪平君、『チーズはどこへ消えた?』という本を知っているかい?」
その本は、確か高校生になった時に読んだことがある。
やたら薄い本なのに絶賛されていたっけ。
内容はもう覚えていない。
「名前は知ってますけど、内容までは覚えてません。」
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平沢さんはしばらく黙ると、近くにあった岩に腰を下ろした。
自分のチーズが大事であればあるほど
それにしがみつきたくなるのさ。
「これは、この本で書かれていた言葉なんだけどね。おそらく雪平君はハードボトムを大切にしていたんだと思うんだ。」
はい、その通りです。デス化した手塚池で、数少ない『魚が釣れるスポット』だからだ。
「ただ、そのスポットが常に釣れるかどうかは分からないんだ。もしかしたら、他にもそのハードボトムに気づいている人間がいるかもしれない。もっと条件のいい地形変化があるかもしれない。」
理屈は分かるけど、そんなのどうやって分かるんだろう?
つねにチーズの匂いをかいでみること
そうすれば古くなったのに気がつく。
「もしかしたら、手塚池に来たのが久々だったのなら、変化には気づきにくいものだ。毎日通って釣りをするようなホームレイクだったら、少しずつ変化に気づけたかもしれないね。」
つまり、前回キャロライナリグで釣ったあの日から今日までの間に、何かしらの変化があった可能性があったのか。僕はその変化に気づかないまま過去の釣りに執着してしまっていたわけだ。あまりにいい思いをしてしまったために、こだわり続けてしまったということか。
そんな時は、どうすればいいんだろうか?
「勇気が必要だが、そんな時は執着を捨てるんだよ」
平沢さんはあっけらかんと言い放った。
古いチーズに早く見切りをつければ
それだけ早く新しいチーズがみつかる
「チーズだけじゃなく、ブラックバスだって同じさ。前回釣れた場所で全く同じ魚が釣れるだろうか?
似たシチュエーションになることはあるだろうがね。いつもいつも同じように釣れることは、正直マレだと思うね。」
たしかにそうだ。
いつも同じ場所に同じ魚がいるとは限らない。
「自分が手に入れた幸せは、いつまでも手元にあるわけじゃない。誰かに持っていかれることもある。」
僕は昨日の牛丼のことを思い出した。
人間は誰だって、勘違いや失敗をする。
意図しない失敗で
自分の幸せは簡単に離れちゃうわけだ。
それはブラックバスたちも同じなのだ。
水温もエサも、自分が好むようにはコントロールできない。
だから彼らは、良い水温や良いベイトを求める。
人間もブラックバスも同じ。
成功、快適、称賛、などなど…
手に入れた幸せがずーっと続くことは
なかなか難しいようだ。
じゃあそんな時、新しい幸せを得るには
どうしたらいいのか。
それは難しく考えずに
行動にうつすこと。
しかも、なるはやで。
新しい方向に進めば、それだけ新しいチーズが見つかる。
新しい釣りを覚えたら、新しく釣れる魚が増えるのだ。
頭を釣りに戻す。
キャロライナリグで反応が無いわけだ。
新しいチーズを探すとしたら
まだ手をつけていないところだ。
どうやって釣ればいいんだろう?
「平沢さん、釣り方を知らなくて。
教えてもらえませんか?」
平沢さんはニヤリと笑った。
「フフフ。チーズに近づいてきたね。」
平沢さんは、初めて訪れた手塚池でどのように魚を探したんだろう?さっき釣った魚は何を使っていたんだ?
「初めてのフィールドで魚を探すとき、僕なら水温を測るところからスタートするんだ。そして、シーズナルパターンに当てはめていく。今日の水温は知っているかい?」
水温か…測っていなかった…。
僕は黙り込んだ。
「今日の水温は、岸際で22℃だよ。この時期としては、思ったより低いね。」
梅雨があけたが、まだ適水温だ。
バスは活発に動いているだろうな。
ハードボトムにいない理由はなんだ?
「今週は、ずっと雨だったね。水温がこの時期にしては低めだったのはその影響かもしれない。」
たしかに。今週は雨が続いた。
「雨が降ると水温も下がるが、もうひとつ影響があるんだ。何だと思う?」
水温だけじゃなく、もうひとつの影響?
なんだろう?
「それは、光の量さ。バスには目蓋が無いだろう?久々の晴れだから、バスはまぶしい場所を避けているかもしれない。僕はそう考えたんだよ。」
僕が狙っていたハードボトムは日向だ。
そして他の人たちが狙っているウィードも日向ばかりだ。
ただ、開けた手塚池にシェードなんか無い。
どこにシェードがあるんだろう?
「見たところ、シェードは無いね。視点を高くしたり低くしたり、もっと柔軟にしてごらん?」
視点を柔軟に…か。
僕は目を閉じた。
もしも自分が鳥になったら…
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視点も下げてみる。
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僕は、自分が立っている岬を見た。
この岬は池の南岸から張り出している。
石垣でできていて、足元から水深が深めだ。
僕は、リグを結び直した。
結んだのは、ポトマックホグ。
3.5gのテキサスリグだ。
足元に落としてみる。
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僕の予想が当たっていれば
岬の延長に影が落ちている。
底には何が沈んでいるか分からない。
安全策を取って、根掛かりに強いテキサスを選んだ。
スーッとラインが引き込まれる。
僕はフッキングした。
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ライトテキサスで釣れたのは
38センチのバスだった。
少し痩せぎみだったけど。
平沢さんは、拍手してくれた。
「おめでとう。ナイスフィッシュ」
サイズなんか関係なく嬉しかった。
平沢さんの少しのヒントから
なんとか自分で考えて釣れたからだろう。
何かが悪くなれば
また別の何かが良くなる。
バスフィッシングは
こんなことばかりである。
日が強く照ればシェードが活きる。
ローライトなら巻いて探れる。
水温が上がれば、魚は活性が上がる。
逆に下がれば、スローな釣りが。
チーズも同じかもしれない。
チーズが消えることは
新しいチーズが生まれることと同じ。
チーズが消えたことを怒り悲しむより
新しいチーズが生まれていることを
想像して喜べたら?
昨日の牛丼も、きっとそうだ。
きっと何かの意味があったのかも。
そうだとしたら、失敗だって愛せる。