第8話 老子、学問のすすめ、七つの大罪
手塚池での釣りの後、僕らは買い物に出かけた。どうやら今日の七滝ダムは観光目的のイベントがあり、湖面利用はできないらしい。
地元の観光協会と漁協が行っている、納涼アユつかみ取り体験だそうだ。世間の休日に合わせて休みができたので、平沢さんはこちらまでやってきたとのことだった。
僕は一度家に帰って釣り具を片づけ、平沢さんの車に乗せてもらった。平沢さんは市内の釣具店の品ぞろえや客層を確認していた。どんなルアーがよく売れているのか。大手の量販店と老舗のプロショップでは、売れるものに違いがあるのか。中古釣具店では、どんな商品が多く買い取られているのか。プレミア価格がついた商品は何か。平沢さんはそういった視点で色々な店に足を運ぶ。僕にとっては、ただ商品が並んでいる空間なんだけど。
平沢さんにとっては、釣りの「流れ」みたいなものを感じる場所らしい。僕はお気に入りのルアーをいくつか買った。もちろんマージナルゲインのルアーだ。ただ最近は、平沢さんが教えてくれたルアーも買うようになった。地味な見た目だがよく釣れる、オービタルピリオドのルアーだ。今日も平沢さんに勧められたものを2つほど買った。ラトリンウェイクという、水面で使うクランクベイト。
そして、ダートスティックというワームだった。「これも、地味なルアーですね」
僕は平沢さんに言った。もちろん、釣れることが分かったうえでだ。
平沢さんは
「地味だが釣れる。最高じゃないか。豪華だけど釣れないのは嫌だな。」
平沢さんは、これを「機能美」と言っていた。
昼ご飯は、僕が大好きなラーメン店に案内した。
「そういや平沢さん。七滝のイベントって、何時に終わるんですか?」
「たしか、午後3時に終了だったと思うよ。」
なるほど。
それなら、明日には釣りができる。
せっかくだし、明日の朝に釣りに行こう。
「雪平君、せっかくだ。今から七滝へ走れば夕方には着くだろう。渋滞にも巻き込まれないだろうし。夕マヅメで面白い釣りをしないかい?」
面白い釣り!?なんだかすごく気になる。平沢さんが「面白い」っていうぐらいだから
大きなバスがぼこぼこに釣れるんじゃないかな?僕は期待で胸がギュンギュンしてきた。
せっかくなので、七滝へは平沢さんに乗せてもらうことにした。帰りは電車を使えばいいもんな。
僕らは市街地を抜け出した。
七滝ダムへ向かう道は、いつも夜間しか走っていない。湾岸道路と、道路沿いに規則正しく並ぶオレンジ色のライト。それぐらいしか視界に入らない。それがどうだろう。昼下がりの湾岸道路はまた違った景色だ。
遠くの水平線に見える、まっすぐ伸びる飛行機雲。中央分離帯の日焼けしたガードレール。暑くてうざったくなる夏だけど、今日は爽やかだ。
車内では、日頃の仕事の話だとか、昔に経験した釣りの話。バスフィッシングを始めた頃の話や、初めて釣ったバスの話を聞かせてもらった。
平沢さんは、すごい人だ。色々な本を読み、実践し、成果に繋げている。謙虚で物腰も柔らかい。働き方もすごい。どうやら、昔は大手の証券会社やベンチャー企業で働き、今は副業で投資をしながらプロショップの店長をしているらしいのだ。一方、僕はどうだろう?毎日ズルズルと慌ただしく働き、ルアーのオークションに張り付き、満足に魚は釣れず、牛丼にトッピングが無かっただけで落ち込んでイライラするし…。いいねの数に一喜一憂し、フォロワー数に敏感になる。本当につまらない人間だなと思ってしまう。悠々と生きながら成果を出し続ける平沢さんが、正直うらやましい。
「いいですね。能力がある人は…」
氷が溶けて薄まったコーヒーを飲みながら思わずボヤいてしまった。
平沢さんはしばらく黙りこんだ後
「羨ましいのかい?」
と尋ねてきた。
「そりゃそうですよ。釣りも上手いし頭も良いし働き方も羨ましいです。」
僕のこの気持ちは、憧れなのか嫉妬なのか
分からない。
「そうか」
平沢さんは静かに話し始めた。
「別に自慢をするつもりじゃないんだが、僕が雪平君と同じ歳ぐらいの頃は、仕事漬けでね。釣りに行く余裕なんて一切無かった。給料は人並み以上だったけど、毎日必死で働いて歩き回って、得意先や上司から叱られて辛酸も嘗め続けたよ。肩書きだけならソコソコの企業だけど、何人もの同期が辞めていくような場所だった。そして僕もその1人だ。」
なんとなく想像はつく。
巨大企業なら
「お前の代わりなんていくらでもいる」
が当たり前だろうから。
平沢さんも氷の溶けた薄いコーヒーを飲んで続けた。
「そこでね、気づいたんだよ。いくら勉強して知識や知恵を身に付けても、お金や肩書きが手に入っても、自由が無いと辛いんだ。お金は手に入っても、ノウハウは貯まっても、大好きな釣りの時間はこぼれてしまう。世の中の全部は、必ずしも同時に手に入らないのかもしれない。」
「そうですか。でも、カッコいいじゃないですか!お金もノウハウも貯まって自立できるんですから。」
平沢さんは、自分がイケてる生き方をしていることに気づいていないんだろうか?
「僕からすれば、雪平君の生き方も良いと思うよ。釣りができる健康が守られ、釣りに行ける休日が保障され、釣り道具や車を自由に買える財力もある。満たされているよ?」
僕はドキリとした。僕は釣りができることを、当たり前だと思っていた。だがどうやら、違うらしい。そしてなにより、平沢さんは釣りができない環境にいて、僕は十分に釣りが楽しめる環境にいた。おそらく平沢さんは僕のことを「羨ましい」と思っているのだ。
高級車が、スイスイと僕らを追い越して滑らかに走る。
あまりに珍しかったので僕は「あっ」と口走った。まるで羨ましさの権化のようだ。
平沢さんは「かっこいいね」とだけ言った。
「雪平君は『老子』を知ってるかい?」
老子?なんだそれ?
「そうか、じゃあ『大器晩成』や『柔よく剛を制す』は知ってる?」
それなら分かる。有名な言葉だ。
その言葉を遺した人が「老子」という中国の思想家らしい。そしてその老子の言葉に
「足るを知る者は富む」という言葉がある。
足るを知るとは
「現状に満足しなさい」
「何も望んではいけない」
という意味だろうか。
「足るを知るってことは、今の自分に満足しなさい。身の程をわきまえなさい。ということですか?それって、向上心や働くモチベーションを否定してません?あと、成り上がりたい人に救いがないというか。」
現状に満足し、持っているモノで満足できるものは幸せなんだろうか?
「じゃあ、雪平くん。人間を簡単に不幸にする方法を知ってるかい?」
幸せの反対は不幸だ。不幸になる方法はいくらでも思いつくぞ。チーズが無いことを嘆いたりや、他者の課題を混同したりすることだろう。今まで、色んな話を聞いてきたからな。
「人間を最も不幸にするのは『嫉妬』さ。つまり、自分と誰かを比べて自分の足りなさを見つけ、相手を羨むことだ。」
そうなんだ。僕はよく比較しちゃうな。特に、いいねが沢山ついてキラキラした人なんかをよく比べてしまう。
他の人が釣れないなか一人だけ釣ってて気持ちがいいのは、まさに「嫉妬させているから」だ。他人の不幸は蜜の味。嫉妬ベースの幸せは、罪だと思った。
「雪平くんは、福沢諭吉の学問のすすめを読んだことはあるかい?」
「あー、ないですけど。天は人の上に人を作らず…っていう言葉は知っています。人類はみんな平等とかいう意味のものですね。」少し黙ってから平沢さんは答えた。
「なるほど。たしかに人間は平等だね。しかしどうだ?世の中は公平だろうか?お金や権力を持つもの、持たざるもの、貧しくても幸せなもの、たくさんの人がいるね。こうなってしまうのは『学び』をしているかどうかなんだ。だからちゃんと学びましょうね。という意図だよ。」
知ったかぶりで答えた僕がアホらしくなった。嫌になる。で、老子と福沢諭吉がなんだって?
「嫉妬がダメだよってのは、福沢先生も話しているんだよ」と平沢さんは説明を加えた。
…長い。
要約すると、他人に嫉妬し恨むことは、人の足を引っ張り他人に多くを求め何の利益も生みませんよ。だから最も避けてほしい感情なんですよ。ということだ。
「自分にはあれが足りないこれが足りない、アイツにはあれがある、これがあると、相手のいい部分を見て自分の足りないところを見過ぎたら、不幸へのファストパスさ。キリスト教の『七つの大罪』で最も罪深いのは嫉妬、その次は傲慢らしい。」
なるほど、自分と誰かを比べて「足を引っ張ろう」と考える嫉妬や「俺のほうがすげぇよ」と考える傲慢は、たしかにメンタルに良くなさそうだ。
インターを降りて、信号を待つ。
学問のすすめ、七つの大罪を経由し
老子の言葉に戻ってきた。
「足るを知るというのは、言葉だけを切り取れば『現状に満足し今あるもので満足できる人は豊かですよ』と捉えられる。ただ、怨望や嫉妬を避けるという意味では
『自分自身や自分が置かれた環境、その良さ・強みを知った人や、嫉妬や傲慢といった不幸な感情が生まれた時に穏やかで寛容になれる人は、不幸な感情を遠ざけ幸せになることができますよ』
と考えたらどうかな?」
信号は青になった。
平沢さんはゆっくりアクセルを踏む。
僕は、車の加速を背中に感じた。