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その引用は、どこから? 今谷明『現代語訳 神皇正統記』における丸山真男引用の出所を求めて

 引用文と引用元は記載されているが、引用元を探しても見当たらない。数年後、やっと引用元を特定できた。そんな体験談である。


1、引用元に文章がナイ♪ナイ♪ナイ♪

 今谷明『現代語訳 神皇正統記』(KADOKAWA、二〇一五年)は14世紀に公卿・北畠親房が著した歴史書『神皇正統記』を日本中世史家が現代語訳したものであり、訳者の解説「『神皇正統記』成立と南北朝の動乱」も収めている。 
 この解説には、次のような文章がある。

戦後、「歴史意識の「古層」」等を著わして、奔放支所の比較を試みた丸山真男は、『正統記』と『愚管抄』を対比して、
  歴史把握の深さという点で、くらべものにならぬくらい『愚管抄』のほうが深い。
と親房の史論に辛辣な点を与えている。

今谷明『現代語訳 神皇正統記』49頁

 なお、『愚管抄』は藤原摂関家出身の僧侶で天台座主の慈円が13世紀初めに著した歴史書であり、『神皇正統記』と比較して論じられることの多い書物である。
 解説の「主要参考文献」には、

丸山真男「歴史意識の「古層」」(筑摩書房『日本の思想』(6)、一九七四年)

50頁

とある。丸山真男「歴史意識の「古層」」は、丸山眞男『忠誠と反逆 転形期日本の精神史的位相』(筑摩書房、一九九二年。ちくま学芸文庫版は一九九八年)に再録されており、こちらの方が入手・アクセスが容易である。(※1

 さて、私が初めて今谷(敬称略)の解説を読んだとき、手元には文庫版『忠誠と反逆』があったため、所収の「歴史意識の「古層」」の中から「歴史把握の深さという点で、はくらべものにならぬくらい『愚管抄』のほうが深い」を探そうと試みた。この丸山論文は簡単に一読できる類いのものではなく、当時は通読を諦め(後回しし)ていたため、目的の文章をピンポイントで探したのだが、全く見当たらない。
 探し方が悪かったのかと思って何度も探したが見当たらず、通読しても見当たらない。再録に際して削られたのかな、とも思ったが、探し当てるのが必須な状況でもなかったため、放置した。

2、引用元に対する疑惑 ――誤記載なのでは?

 放置プレイ幾星霜を経て、ふとしたきっかけで再び引用元が気になった。丸山論文初出の本である『日本の思想(6)歴史思想集』の目次をネットで調べると、丸山「歴史意識の「古層」」の他に、石田雄「『愚管抄』と『神皇正統記』の歴史思想」という論文も収録されている。
 そこで私は考えた。
 今谷は「『愚管抄』と『神皇正統記』の歴史思想」に書いてあることを「歴史意識の「古層」」の記載だと勘違いして引用したのでは? と。
 大変失礼な話である。しかし、しばしば今谷はドジ(一例:書き下ろされた本を講演の活字化だと紹介。田中卓『平泉史学と皇国史観』青々企画、2000年、88頁参照)をやらかしていることを私は知っていたから、それもありうると思ったのである。
 私は意を決し、年来のモヤモヤを解決すべく、今谷のドジにかけて『日本の思想(6)』を購入した。そして石田「『愚管抄』と『神皇正統記』の歴史思想」から目当ての文章を探したのだが、見当たらない。今谷はドジなどしていなかったのだ!(今谷先生、疑ってしまって申し訳ありません)

3、引用文、見ユ

 今谷が引用元を誤認したという私の仮説は反証されたが、本来の目的は達せられていない。そこで、改めて『日本の思想(6)』所収「歴史意識の「古層」」からお目当ての文章を探したが、見当たらない。「『忠誠と反逆』に再録するにあたって、文章に手が入れられていた」仮説もボツである。腹が立って、この本の箱を壁に向けてぶん投げると、中から一冊の小冊子が出てきた(ここは話を盛っている。普通に箱から見つけた。ぶん投げるなどという蛮行には及んでいない)。
 出てきた小冊子のタイトルはこうある。
「日本の思想(第6巻)歴史思想集別冊 対談 加藤周一・丸山真男」

『日本の思想(6)』本箱出土文書

 これは、、、と思って読み進めてみる。加藤の発言「鎌倉仏教は仏教の超越的世界観として、本当に日本人の中に入っていった。最初にして最後のものじゃないですかね」、しかし14世紀(『神皇正統記』の世紀である)になるとそれが「「日本化」しはじめて、超越的・宗教的な面がうすめられ」た云々。以下はそれを受けた丸山の発言である。

「ぼくは、狭い意味での鎌倉仏教以外でも、あの時代にはそういう契機があったという気がするんです。例えば慈円は天台で鎌倉仏教じゃないけれども、『愚管抄』と『神皇正統記』と比べたら、歴史把握の深さという点で、くらべものにならぬくらい『愚管抄』のほうが深い。(後略)

小冊子4頁

ここにあったのである!
 引用元は
丸山真男「歴史意識の「古層」」(『日本の思想』(6)筑摩書房、一九七四年)
ではなく、
丸山真男編集『日本の思想(6)』(筑摩書房、一九七四年)付録「日本の思想(第6巻)歴史思想集別冊 対談 加藤周一・丸山真男」
だったのだ。ここにおいて年来の疑問は氷解し、万一いざ首を○るとなった場合の現世への未練が一つ減った。
 今谷は引用に続けて、丸山が『愚管抄』の「道理」はヘーゲルの「歴史理性」概念に匹敵する云々と論じていることを紹介しており、その紹介に相当する内容は「歴史意識の「古層」」に書いてある(文庫版『忠誠と反逆』408頁)。そのため、今谷が参考文献に「歴史意識の「古層」」を挙げていることは間違いではない。しかし、参考文献にそれしか挙げないで、引用した文章がその論文にはなく、論文所収書籍の別冊にあるというのは、参考文献表記として不親切であると言わざるを得ない。私が購入した古本『日本の思想(6)』に別冊がちゃんとついていたからよかったものの、それがついていなければお手上げである。

結論

・よい学生・学者・物書きの皆さんは、引用元が書籍の付録の小冊子・別冊である場合はそれを記載してください。
・よい今谷明『現代語訳 神皇正統記』読者の皆さんへ。丸山の文章の引用元は丸山真男編集『日本の思想(6)』(筑摩書房、一九七四年)付録「日本の思想(第6巻)歴史思想周別冊 対談 加藤周一・丸山真男」4頁です! いくら「歴史意識の「古層」」を探しても、そこに引用文はありません。
・今谷明『現代語訳 神皇正統記』は見出しや注釈が充実しており、簡便な『神皇正統記』の現代語訳として重宝します。本稿では一つの欠点を長々とあげつらっていますし、別稿では解説に対して批判を行ったりもしていますが、それを以て本書の価値が減じることはありません。

(なお、「解説に対して批判を行った」「別稿」とは、以下リンクの記事である)

※1:丸山「真男」「眞男」の表記について

 本稿では、
丸山真男「歴史意識の「古層」」
丸山真男編集『日本の思想(6)』(筑摩書房、一九七四年)
丸山眞男『忠誠と反逆 転形期日本の精神史的位相』(筑摩書房、一九九二年。ちくま学芸文庫版は一九九八年)
 と、「真男」「眞男」の表記が混在しているが、これは私の手抜きによる表記ゆれではない。それぞれの本の著者名を忠実に写し取るとこうなるのである。
 清水靖久『丸山真男と戦後民主主義』(北海道大学出版会、2019年)によると、「一九五〇年代の終わりから八〇年代まで、ほぼ「丸山真男」と書かれていた」が、「『忠誠と反逆』92・06の著者は「丸山眞男」であり、この表記が蔓延したのは一九九〇年代からだった」(5頁)だという。


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