デス・レター(コロナとラジオ)
コロナにやられた。即蟄居である。バイトでやっている家庭教師の生徒から、コロナになったと連絡があった。感染経路まではっきりわかってるのだから、さきおとといの喉の痛みですぐ気がついた。医者に「多分コロナだと思う」と告げると、耄碌ジジイのふりをしているが実は医学会の大物かつ反逆児のその医者は、「分かっているなら来るな、検査代の無駄だ」と言った。まあせっかく来たのだからと検査をしてもらった。やはり陽性。「ほーらやっぱりね」と俺が言うと老医師は「早く帰って寝とけ。次の患者が待っとる」と俺を追い出した。こういう合理的なところがいい。俺は満足して家に帰った。
そうは言っても暇である。土曜日まで蟄居を余儀なくされている。仕事はない。暇である。
Curry Bun Radioという、カリフォルニアのインターネットラジオがある。→を気に入ってくれ、昨晩の番組で曲を流してくれた。当然、他の日本のアーティストに混じってである。俺たちの曲だけが、浮き上がって聞こえた。
俺たち→は、縁あって、ドイツのレーベルから、ヨーロッパ全土で発売されることになった。元々、俺が気軽に打診をしたら、双方真剣になってしまった。俺たち(ともう一組)が契機となって、レーベルが本格化した。そしてその縁がつながって、アメリカのラジオでのオンエアとなったわけだが、要は、西側諸国の門をくぐったということである。
さて、ラジオを聴いていてはっきりと分かったことがある。西側諸国の人々にとって、音楽の価値は、①個性がある②先が読めない③ノリにバックビートがある、の3点であるということだった。とりわけ、②に関しては非常に敏感であり、コード展開にしろ構成にしろ何にしろ、次に「こう来るだろう」という予測がその通りだった時、「つまらない」と感じると分かった。また、俺たちは終始一貫、彼らから日本語の歌詞について、全く聞かれなかった。
一方、俺たち以外のほぼ全ての曲は、その歌詞、そして歌詞を一所懸命説得力を持って歌うことに力点をかけていたことは明らかだった。自分のことであれ彼氏のことであれ悪魔のことであれ、何か確固たる「言いたいこと」があり、それをメロディに乗っけることに執心しているように聞こえた。
このことを書くとすぐ引き続いて、二つのことが思い出される。ひとつ目は、友人にたないけんが言った「歌詞は関係ない」という言い方である。この「歌詞は関係ない」は、前後の文脈を切り取って置いてみると、随分な暴言に見えよう。だが、正確には、西側諸国の人々はまず上記3点を判断基準にするのであり、歌詞はその3つがクリアできなければ、鼻にも引っかけられない。歌詞は軽視されて良いはずはないが、リスニング基準をクリアした後の、二次的項目である。
そう考えると、既存の日本のアーティストの海外進出は、歌詞と歌心に重点を置く限り恐らく、不可能だろう。だからといって、アーティストに(あるいはリスナーに)、今更、ロックの作り方(聴き方)を変えろというのも無理な話である。アーティストもリスナーも、ガラパゴス。そうやって生きていくしかないと、俺は思う。
さてもうひとつ思い出すのは、これも知り合いのエルクおじさんがよく呟く「日本の音楽は素晴らしい」「ライブハウスには希望がある」という言葉である。
Kill Me Elk。彼がバンマスをしているバンドである。エルクはいい。不思議の国のアリスのような世界観とタイトなリズム、学校教育の楽器を多用した、グリム童話のようなかわいらしさとおどろおどろしさを併せ持つ。個性的としか言いようがない。だが、彼の言う「日本の音楽」とは、Kill Me Elkの周辺の、つまり、Elkと同じ日に呼ばれたバンドたちだけが日本の音楽であり、「ライブハウスにある希望」とは、彼らが出ている日、あるいは彼らが興味を持った日にしかない「希望」ということではなかろうか。全編、詞と歌声とアレンジの緻密さで成り立つ音楽ばかり、ラジオで聞いた身としては、そう思わざるを得ない。
だが、エルクおじさんのこの「意図せざる視野狭窄」こそが、世界を見据えた目なのである。ミッシェルもブランキーもナンバーガールもサッチモスもaikoも椎名林檎も、絶対に世界に出ていけない。彼らのフォロワーもまた、出ていけない。ともに、ガラパゴス島の慰撫装置の中でしか、生きていけない。MC5が、Gerry Raffertyが、Talking Headsが、Iggy Popが、Bobby GentryやFiona Appleが作り上げた品種を、日本人は、日本の風土に合わせて改良した。そして今度はそれを、海外の全く違う大地に輸出しようとしたところで、西側諸国の風土に合うわけないではないか。
そこで話は、先述の、にたないの言とクロスオーバーする。日本語が海外進出の桎梏になっていると思い込んでいるアーティストたちよ。日本語は、全く障害ではない。日本語であろうと英語であろうと、彼らは歌詞をいったん脇に置くものだ。そして、あなたの曲が彼らのうちの誰かの愛玩物になった時初めて、彼らは歌詞を吟味しだすだろう。穿った見方をすれば、日本の業界関係者が「うーん、日本語という障害があるからねぇ」と首をひねるのは、自分の作っている音楽が世界に通用しないことの照れ隠しである、とみてよい。
unpredictable, unique, flowing。この3つさえ手に入れれば、日本以外の世界は、手に入る。俺たち→にはそれがあるか?おそらくあったからこその今回の沙汰なのだろう。それは、日本との訣別をもまた、意味するかもしれない。