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デス・レター(俺たちはなぜ、CDを作るのか)


友人のジョズエ頭目、にたないけんが、軽い調子ながら極めて重大な問題を提起した。曰く「音楽サブスクを大枚叩いて購入しても、何も残らない。これは文化の滅亡につながる」一方、リプライで反論があった。曰く「廃盤になったCDを含め、入手困難な音楽、また、好きなアーティストないか毎日触れるためにも、サブスクは必要(悪)である」
両者もっともな意見である。

では俺たち→はなぜ、CDを作るか。俺たちはアートを作っているからだ。ミロのビーナスはルーブル美術館が所蔵している。いま俺が、「ミロのビーナスをサブスクしたい」と言ったら、そして何らかの方法でミロのビーナスのサブスクが実現したとして、俺は「ミロのビーナスを実感した」と思うだろうか?ミロのビーナスそのものの質感、それが飾られている広間の雰囲気、それを醸し出すルーブル美術館という建物、ルーブル美術館のあるパリの街…それらが一緒くたになって、我々はミロのビーナスを「実感する」のではなかろうか。

俺たちのロックはミロのビーナスの鼻毛ほどの価値もないかもしれない。俺たちのアルバムが飾られる場所は、四畳半の棚かもしれない。あるいは他のCDと共に、本を収納するが如く収納されるかもしれない。だが、四畳半で、何かの感情が起きた時、ふと俺たちのCDを引っ張り出して、ジャケットを眺めながら聴く時の、その人にしかわからない感情は、文化そのものではないだろうか。フィジカルなものがあるとは、こういう意味を持つと俺は考える。

一方、日常のどこかのタイミングで、サブスクからにたないの声が流れてきた時の彼女の感情の揺れもまた、彼女にとっての文化である。それはそれで悪かろうはずがない。要は、ミュージシャンとリスナーという、双方の立脚する立場が違うだけである。

(CDの)文化は滅ぶか?利便性に勝るサブスクに押されて、文化はかなり減退すると、俺は思う。だが、俺のような考えの持ち主(まあ少なくとも俺がいる)がいる限り、文化は滅びない。ミロのビーナスが欲しいから、ミロのビーナスをこっちに連れてくるのでなく、ビーナスが見たければフランスまで足を運ぶ。わざわざ。この分岐点は、音楽、そしてジャケットを含めたCDという芸術作品の質の高さによる。彼女はきっと、生でジョズエを見てもいるし、サブスクで常時聞いてもいるのだろう。ある音楽が、サブスクで十分、と判断されたら、それはきっと、悪い音楽なのである(俺たちのロックがそうでないことを望む)。同様に、「サブスクで事足りる」と判断し、フィジカルを蔑ろにする演者はもはや、芸術と違う何かであると見て良い。


・俺は、気に入ったアーティストは必ずフィジカルを買う。アーティストにとってはそれが貴重な収益だからでもあるからだ。これがいわゆる「推し活」と違うところは、その同じアーティストが出した次のアルバムの質が、もし前作を上回らなかったら、絶対買わない、というところだ。この、「チラッと聞き」のためにサブスクは有用ではある。
・下をクリックすると、にたないの意見を見ることができる。反論も出ている。どちらも音楽に対して非常に真摯な向き合い方とわかる。こういうやりとりがある以上、文化は滅亡しないと俺は思う。
・写真は俺の2ndアルバムの盤面デザインである。

https://twitter.com/nitanaiken/status/1664064426549575680?s=46&t=iij8GHyseT4JTdqFQabhrA

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