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デス・レター(ババアという蔑称について)



お休みのところ大変恐縮だが、俺はババアが大嫌いである(あ、この場合、ババアという呼称は『中年以上の女性』の意味では全くない。後述する。誤解なきよう)

道を歩くと、光に集まるガのように俺に向かって歩いてくるババア、俺の容姿端麗に露骨に嫌悪の顔(なんだかもともとそーゆー顔なんだか)をするババア、「道のタバコはマナー違反だよ」といきなり怒り出すババア。なんの関わり合いもない俺としては、面と向かって言わないが、心の中で「ギルティ」と言って、ゴルゴ13よろしくM16カービン銃を(勿論心の中で)取り出してはいる。ゴルゴと俺が違うのは、俺が私恨で動く事である。であるから、すぐ撃つ、心の中でだが。

「そーゆー風に思っているあなたも、やがてジジイになってゆくんだから」と、をんなは言ったものだ。だが、この発言は、二重の意味で、間違っている。まず、俺が将来なるのは、真っ当な人間か、ババアのどちらかである。ジジイなんかにはならない。逆に、男でもババアになるやつは、いっぱいいる。ババアにならずに、真っ当な女性で一生を終わる者も、いっぱいいいる。そして、もっと深い意味において、俺は、ババアにはならない。それは、以下のようなババアの定義があるからである。

喫煙の例が分かりやすいだろう。路上での喫煙に嫌悪感を示す人々がいる。それは、全く正しい事だと、俺も思う。嫌いなものは、嫌いだ。さて、ここに「路上喫煙は、受動喫煙にもなります。子供に触れると危ないです。そもそも、禁煙はマナーです。」このような示唆が、ババアの内外にあったとき、ババアは、自分が持つ嫌悪感を、公認教養で正当化する。「私は嫌だ」を「私は正しい」にすり替える。個人の感情を、大衆なるものの「共通認識」にすり替える、この点こそ、真っ当な人間がババアに生まれ変わる瞬間であり、俺がババアにならないのみならず、心の中で、そういったゾンビたちを撃ち殺す所以である。

教師である友人Aが、いじめられた生徒のところに事情を聞きに行って、(学校から?)逃避したいという生徒の気持ちに理解を示したところ、「なんで私が逃げなくちゃならないんですか!」と切り返され、言葉を失った、という、まことに悲しい話をある所に書いた。本当に悲しい話であるし、誰の意見も正しい。

「誰の」というのが、(おそらく)、いじめた生徒の意見も、という事であるところが、いじめ問題を難しくしているように、一見、思える。いじめのほとんどの例において、いじめた側の主張は、正論であり、理にかなっているからである。だが、この「理」こそ、ババアが自分の感情を正当化するために使った、「共通認識」ではないのか。いじめた人間は、俺が嫌うババアと同じく、本人がいじめの対象の生徒に思った感情を、リクツに、それも共通認識という屁理屈にすり替えたからではないのか。

いじめは、悪である。いじめたやつは、絶対に悪い。それは、いじめたやつが、ババアだからである。友人Aがもうちょっと俺と早く知り合っていたら、俺は、即座に行動を起こし、奴を撃ち殺していたであろう。ババアをではない。ババアはいわば、戦闘員のようなものだ。戦闘員を操る、ダース・ベイダー即ち共通認識をこそ、俺のM16は狙わなければならない。

だが、これまた悲しい事だが、一度ゾンビになったものは、人間には戻れない。一度ババアになった者もまた、同じだ。ピエール瀧に対する、未だに続くバッシングを見よ。残念ながら、一度ターゲットになった真っ当な人間は、逃げるしかない。逃げた先には、感情が、往来のリクツと別の論理で流れていることを、知っている人々がいる。理屈に縛られずに感情を統べる大きなものがある。世のババアどもは、その場所を嫌がるだろう。そして逃げた者を、きっと「不良」と呼ぶだろう。「共通認識」と己の感情が癒着した彼らには、そうとしか見えないからだ。その時それを逆手にとって、君たちは、アートを、クラブを、独り占めにするんだ。胸を張って、堂々と、自分のために生きるんだ。ハードハウスのキックは、そのためにある。俺のギターは、そのためにある。

アンダーグラウンドとは、そういうことだ。




・先日、俺の家の隣の団子屋さんが、閉店した。「あらーそれは残念」と言う俺に、主人のおばあさんは「だって、お店やってるの疲れちゃったんだもん。もういいわ、って思って」ときっぱり言った。お見事!なんと潔い決断だ!客の気持ちなど考慮せず、自分が嫌だからやめる。こんなに素晴らしい理由があるだろうか。彼女は今、ヨガとウォーキングに凝っているそうである。理由は「以前からやりたかった」からだそうである。
彼女は「ババア」にならなかった、典型的な例である。従い、彼女を「ババア」と呼んだ奴には、俺が、マシンガンの洗礼を浴びせることにする。

・本日の頭髪である。ここまでくると、もはや心配はなんらないように思える。だが、そう思ってお花畑で遊ぶ事こそが、ババアの始まりであると、俺も自戒しなければならない。従って、依然戦闘体制維持である。ザマアミロ(何がだ)

・口直しに、前回取り上げた、ロバートパーマーのもう一つの顔をご紹介する。60年代ポップスを、さらっと歌ってこの上手さである。
Robert Palmer “ No, Not Much“
https://youtu.be/h4pybETNcWU

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