デス・レター(コロナと踏み絵)
依然、コロナ蟄居中である。症状はほとんど収まったが、ここは波風を立てないようにじっとしていることにする。ひまだ。インドカレーを食べたい。
コロナの弊害は、頭の回りが若干落ちることである。だが、俺の場合はそれに加えて、普段は理性で食い止めていたものが、漏洩するという特徴があった。本稿もおそらくその影響である。
エリック・クラプトンといえば、ポール・マッカートニーと並ぶ洋楽界の顔役である。ブルースがベースである、ヒット曲が多い、いろんなほかのアーティストと共演している。彼の名前を出しておけば、一応音楽談義は丸く収まる。「クラプトン?彼は神様だからねぇ」とまあ、しゃんしゃんである。これと同じ立場にいる日本人は、おそらくcharであろう。あるいは桑田佳祐、ユーミンもまた、そうであろう。
さて、唐突だが、俺は、上記したどのアーティストに、一度も、ただの一度も良いと感じたことがない。彼らの声にも、曲にも、ギターにも、演奏にも雰囲気にも、ただの一度も、感じたことがない。だが俺はこのことを小声で言わなければならない世界に住んでいる。すなわち、日本である。
Xをぼうっと見ていると、外国のツイートでDo you like Eric Clapton?と実にダイレクトに問いかけるツイートをよく見る。答えも様々で、クラプトンの大信奉者から大のヘイターまで、さまざまなリプライが林立するといった状態である。そしてそれが、互いのつぶしあいなく、ただ、置いてある。俺はこういう世界に住みたい。クラプトンを、charを堂々と「好まない」と言える世界に(もう言ってるけどね)。そのことで嫌われない世界に、俺は住みたい。
日本には同調圧力がある。歴然とある。「触らぬ神に祟りなし」とか「出る杭は打たれる」とか。神に触ったものは顰蹙を買うし、出た杭は引っ込むよう「自粛させられる」、あるいはこれを見ないようにする。なかったことにする。但し、度を超えて目立ったものは、彼彼女より劣るものによって、神殿に祀られる。クラプトンやcharは、大げさに、そして悪く言えば、愚者たちの権威であり、虐待の根拠である。(もちろん、彼らの「真の」ファンを悪し様に言うつもりはない。一応「忖度」はしておく)
クラプトン(あるいはchar)への批判としてよく見るのが、「クラプトンは手癖でソロを弾いているのではないか」というものだ。これは俺もそう考えている。彼のソロに全くスリルを感じない。一方、5、6年くらい前までのジャック・ホワイトのソロには、毎度しびれっぱなしである。何が飛び出すか分からないからだ。Charの楽曲、桑田のコード展開、ユーミンの歌詞…次の展開が分かる、全くスリルがない。俺が好むはずがない。
だが、これをおおっぴらにすると顰蹙を買うのが、日本なのである。
あるいは、ライブハウス好きの方なら覚えがあるだろう。特定のバンドのファンのおばさん連を、あるいは、特定の女性アーティストのファンのおじさんを。「推し」という言葉を。彼ら彼女らはお目当てのライブが終わると、そそくさと帰る。ほかのアーティストの存在が、消えている。これもまた、「不信心者に対する愚者の虐待」の一形態であることを、当のおじさんおばさんは気づいていない。
前項でも述べたように、この傾向が変わるとは、俺には思えない。日本とは、そういう国なのである。恐らく、次に崇め奉られるのは、Thee Michel Gun ElephantとBlankey Jet Cityである。無神教の俺は、どうすればいいだろう?
註
・という、なんともありふれた結論になった。なんのことはない。偏屈なジジババを叩いただけの文章である。現に、「隠れクラプトン嫌い」「隠れchar嫌い」は結構たくさんいることもわかっている(俺調べ)。「けっ、クラプトンなんて…ダセェ」一部顕在化もしているようだ。だが、このジジババを嗤う若ぇ衆が、ミッシェルを、ブランキーを笑えるだろうか。俺はミッシェルを嗤えるのだが、その時、今この文章を読んでいるあなたは、俺という出る杭を、打つか?
・因みに俺は、ブランキーも浅井健一の声も好まないが、浅井健一のファンである、というなんとも倒錯したファンである。忌野清志郎に対する反応と同じものが、ここにある。
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