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「性的少数者と友人達のためのミサ」の必要性➖➖真の当事者性と祝祭の場

「性的少数者と友人のためのミサ」

東京に「LGBTQみんなのミサ」という集いとミサがある。そのミサと分かち合いはアライの方がコーディネートされていて幾人かの信者が参祷している。個人情報等は守られるので誰がミサに集っているかは自己申告しない限りわからない。性的少数者の問題を「教会の課題」として受け止めている司祭が司式司祭として招かれている。

僕はそのミサに与った事はないので詳しい事はお伝えできないのだが、当事者であるLGBTQに加えアライの協力者に異性愛者の司祭という性的指向やジェンダーが多面的であるところはとても良いことと受け止めている。というのも、LGBTQの真の当事者性はそれ以外の性的指向やジェンダーが向かい合うところに生まれるからだ。性的少数者の問題は人権の問題であり、そこから取り去られた祝福を回復する事は神学的にも大切な問題であるという事を認識する人はすべて性的少数者の諸問題の当事者と言える。

小教区につなげる司牧的配慮と非ゲットー化

性的少数者と友人のためのミサは考えれば考えるほど必要だ。原則としてカトリック信者は自分の所在地の小教区によって教会生活をおくる事になっている。もちろん長らく役所の役目を果たしていたヨーロッパの伝統なので信仰的な根拠はあまりないのだが、自分に与えられた小教区とその教会共同体で他の信者とともに自分の信仰生活をおくると言った観点からも伝統を超えた意味がある。性的少数者の信者は比較的大きな小教区に集まる傾向がある。それはもちろん行きにくさ(生きにくさ)があるからだ。もし地方の小さな小教区でも性的少数者を受け入れる体制を信仰共同体として課題とし取り組んでいるのなら、わざわざ都会の大きな小教区に紛れるように行く事なく「自分の小教区」でのびのびと健やかに信仰生活をおくることができるはずである。だが、いまだに性的少数者の受け入れに積極的な働きかけをしている小教区に出会ったことがない(セミナーや講演会はあるだろうが)。できるなら教区の管轄のもと各司教区でこのようなミサが捧げられ、分かち合いの時がもたれる事も求めていかなければならないと個人的には思う。

そのような意味においては、集った性的少数者の信者が自分の小教区へ帰っていくためのカンフル剤的存在もしくはリハビリとしても性的少数者と当事者に特化したミサは必要であると言える。あくまでも最終的には自分の小教区で何の差別も引目もなく信仰生活をおくることを念頭に置かなければ、そのミサは簡単にゲットー化する。それは小教区にとっても大切な課題を取り上げられる事にもなる。信者本人が望むなら司祭間で個人情報に注意を払った連絡や説明の上、主任司祭にカミングアウトした状態で自分の小教区に戻ることもできるようになるだろう。

カトリックは共同体の信仰である。だが小教区において自分のライフイベントに関わる秘跡を受けにくい場合は、このミサが一つのサービスチャーチとして関わり共同体を形成することもできる。確かに便利で心理的ハードルが低くコミットできるが、カトリックの本来の信仰共同体としての小教区への橋渡しがなければこのミサはゲットー化し非可視化のままとなる。洗礼や告解といった秘蹟が授けられた場合はその管轄する小教区に洗礼台帳を置かなければならない意味を考えながら、性的少数者の信仰共同体として可能な秘跡と準秘跡、及び司牧的配慮を考えつつ、将来的な小教区との関わりを念頭におくべきであろう。

例えばカトリックに関心がある性的少数者の未信者を小教区に繋げにくい場合、入門講座と入信の秘蹟を授けなるべく早く自分の小教区へと繋ぎ、その先のケアについて司祭を含めコアメンバー達で対応して行けるのなら教会の敷居が高く感じてしまう性的少数者にとっては大きなチャンスとなる。大事なのは、準備と秘跡のその先にある小教区での生活の質がどうであるかということだ。

教会からの助けの手

性的少数者のミサに次いで大事なのは司祭・修道者による包み隠しない霊的同伴を受けることではないだろうか。現行教会法では相互補完のある生殖に開かれた男女のカップルの生殖のための結合以外のリレーションシップは許されない。だが、生きてゆくために支え合う二人の間に愛がないと言えるだろうか。支え合い生きている人に与えない祝福がない教会とは一体何者であろうか。秘跡とそれ以外の関係性についての詳しい事はこの場では述べない。生きてゆくために支え合う二人こそが相互補完を満たしていると僕は考える。秘跡が受胎と緊密に結ばれているのなら養育にも結ばれるべきであるが実際のところはどうだろうか。教会の言う男女による相互補完は受胎に完結するが受胎した命は育てられて初めて実を結ぶのである。実際はどうだろうか?

自らの貞潔を保つ事は非常に大事な事であるし、多くの信者のある意味「関心事」である。だが、大事にされた経験のない者は自分を大事にはできない。愛されたことのない者は自分を愛することができないのだ。教会は貞潔ばかり強調するが同時に性的少数者を大事にし、愛さなければ貞潔の真の意味を見出す事はできない。貞潔は単なる倫理的行動規範ではないのだ。教会はカテキズムの教える通りに、性的少数者一人一人を愛し、受け容れ、慰め、赦し、愛の絆で緊密に結ばれるよう招かなければ、せっかくのカテキズムや教会法はやかましいドラに過ぎなくなると僕は思う。大事にされてこそ初めて自分を大事にしようとするのだ。自分を大事にできるからこそ、他者を大事にできるし愛することもできる。その営みを貞潔と呼ばずして何と呼ぶのだろうか。

そういった当事者も気づかされないニーズに応えるためにはよくトレーニングされた司祭・修道者と定期的な霊的指導や霊的同伴が大きな恵みをもたらす。何が不要で何が不必要かと言った非常に傷つきやすい事柄を、自分を装ったままで扱うことができるであろうか?無理である。

性的少数者カトリックに必要なのは愛である。慰めである。赦しである。受容である。その事に応えられない教会のジャッジに信頼を置く事ができるであろうか?性的少数者への秘跡と霊的同伴の必要とその恵みの大きさを広く認識されたく思う。「種々の機会のミサ」の「困難の中で」のミサの拝領祈願には次のようにある。「全能の神よ、とうとい秘跡に力づけられて祈ります。困難に対して勇気をもって立ち向かい、苦しみにある人にも励ましを与えることができますように」と。その共同体が苗床や保育器のように性的少数者を癒し、育て、のびのびと自分の小教区でありのままの自分で信仰生活をおくれるなら何と素晴らしい事であろうと僕は思う。

教会は諸民族の光であるイエズスに従う旅する方舟である。わたしたち性的少数者もまたイエズスに贖われた「諸民族」なのである。同じく「困難の中で」のミサの集会祈願にはこのような祈りがある。「恵み豊かな父よ、苦しみの渕からあなたに叫ぶわたしたちを顧み、重荷を取り除いてください。あなたのいつくしみ深いはからいに、いつも心から信頼することができますように」教会はわたし達から光を取り去ることは決してせず、かえって神のいつくしみ深い計らいを執りなしてくれることを、教会への信仰を通してわたし達は知っているのです。

「一番大変な時を一番に気づいてくださる母マリアへの信頼」

聖母マリアは世界の呻きを絶えず聴き、ご自身のおん子に従う別れた兄弟姉妹を一つにし、聖母のおん子、わたし達の主であり友であり神であるイエズスへと結び合わせて下さる。わたし達の母である聖母マリアにこの願いを聞きあげ御子に取り次いでくださるよう願いたいと思う。

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