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「イクトゥス・ミニストリー」について

 最近各SNSに「イクトゥス・ミニストリーというのを始めた」と投稿しています。この「イクトゥス・ミニストリー」とはなんなのか、どういう活動なのかきちんと投稿していなかったので、立ち上げた動機から紹介させてください。

 このミニストリーなにか新しいことを始めるわけでも、従来の小教区に対する対立活動でもありません。LGBTQカトリック信徒を主体としたSOGIに開かれたミサ共同体であり、同時に「周辺」という言葉に包摂される人々や状況への「関わり」に生きようとする信徒のミニストリーです。

 活動の中心は「みんなのミサ」です。ミサの後に希望する仲間と共に食事(アガペー・ミール)や個々人でのフェローを大切にします。ミサの結実として、祈りの集いやリトリートのオーガナイズ、教育的プログラム、プロジェクトやテーマで集まるブランチなどのアウトリーチやサポート活動があります。そして、ミニストリーの活動やスピリチュアリティを分かち合うためのウェブコンテンツの提供があります。
 
 近年カトリック教会ではシノドスの歩みからもたらされた「シノダル・チャーチ(協働=共に歩む教会)」という言葉が使われます。これはシノドスの「提題解説」としてラテンアメリカ司教協議会から出された“Toward a Synodal Church Going Forth into the Periphery(周辺部に向かうシノダル(共働=共に歩む)的な教会を目指して)”に明確に示されています。この文書はでは教会の課題として「私たちは、貧しい人々、社会から疎外された人々の叫びに耳を傾ける福音宣教する教会、女性、若者、一般信徒が大きな役割を担う”シノドス(共働)的な教会にならねばならない」と指摘しています。パンデミック後に露呈された社会的、経済的不平等、政治の腐敗と民主主義の脆弱性、環境破壊の進行(殊にアナゾンにおける)、人口流入による都市の拡大、世俗主義の拡大などを「時の徴」として読み取ることを推奨しています。
 
 教皇フランシスコは環境破壊について、また、全被造物の呻きに耳を傾け、わたしたちカトリック信者がどのような眼差しで世界を見つめ、わたしたち自身がどうあるか、教皇文書や折々の説教を通じて語っています。
 
 教皇が就任時に教皇名として史上初めて選んだアシジの聖フランシスコ(1182年ー1226年現イタリア・アシジ)の霊性が教皇のリフレクションの源となっているよう思います。たとえば教皇2番目の回勅「ラウダート・シ」はダイレクトに「兄弟なる太陽の賛歌」の冒頭から取られたものです。

 アシジの聖フランシスコは「遺言」の中で次のように語っています。「主は、わたし兄弟フランシスコに、次のようにして悔い改めの生活を始める恵みを与えてくださいました。わたしがまだ罪の中にいたころ、レプラを患っている人々を見ることは、あまりにも苦しく思われました。そこで、主が御自らわたしを彼らのうちに導いてくださいました。そこで、わたしたちは彼らと共に慈しみの業を行いました。そして、彼らのもとを去ったとき、以前のわたしには苦しく思われたことが、精神と体にとって甘美なものに変えられました。こうして、その後しばらく世俗に留まった後、わたしは世俗を出ました」(「アシジの聖フランシスコ・聖クララ著作集」フランシスコ会日本管区訳・監修 「遺言」P160)。聖人はこの体験のすぐ後には教会(聖堂)への信仰、司祭(ローマ・カトリック教会の位階制とそれによって保持される聖体の秘跡)への信仰を「主が与えてくださった」と言っています。つまり、聖人の神体験と信仰は、教会の中心に固く留まり、周辺で神と出会うといっていいでしょう。

 2023年に教理省は宣言文「祝福の司牧的意味をめぐる宣言『フィドゥチァ・スプリカンス』」を発表し、教皇はこれを承認しました。この教会文書が「祝福の司牧的意味」として二つのケースの祝福について言及しています。一つは同性カップルへの、そしてもう一つは秘跡婚以外の形の男女のカップルへの祝福です。この序文の中で、教理省長官ヴィクトル・マヌエル・フェルナンデス枢機卿は、この宣言文が「教皇フランシスコの司牧的ビジョンに基づいた」神学的考察を通して「昔からの理解を広げ、豊かに」しながら「祝福の司牧的意味」の探究を可能にしたと説明しています。また、同性または非秘跡婚男女カップルへの倫理的、または教会法的議論ではなく、「祝福をめぐり言われてきたことに対し真の発展を暗示する」ものだと解説しています。秘跡婚以外の男女カップルや同性のカップルを「教会法的に認可することなく、あるいは、結婚をめぐる教会の永遠の教えをいかなる方法でも修正することなく祝福する」ことの理解を可能にしたと述べられています。

 イクトゥス・ミニストリーは、このシノダル・チャーチ(協働=共に歩む教会)という教会の要請に応えたい内発的動機を抱いています。また、アシジの聖フランシスコに影響を受けた数多くの人々と同じように「周辺」において神と出会い、同時に教会の中心(それはポジションではなく)に留まり養われることを求めています。そして、宣言文「フィドゥチァ・スプリカンス」が示す祝福のあり方を、カトリック教会の最高の祈りであるミサに「違う者が違うまま大事にし合いながら」結ばれていくことは、祝福の可視化であることを信じる信徒の集まりです。そしてそれらの結実をわたしたち自身の生き方のうちに、そして信仰共同体のうちに実らせていただくをことを願う者の集まりです。

 以上の背景と理念に基づくカトリック教会における合法な活動をイクトゥス・ミニストリーは展開してゆきたいと願っています。常に教会に従い、司祭の指導を仰ぎます。そして、非常に難しいことですが誰も取り残されることがないあり方を願います。それらを守りながら、共にミサを祝い、互いの存在を祝い、この困難の多い社会の只中にある周辺へ送られ、そこで神と出会い奉仕することを願います。
 
 違う者が違う者のまま大事にされ、様々な違いを超えて共に祈る姿のうちに、わたしたち自身が主の平和を見出すことができますように。愛である神のいつくしみにあふれる配慮へと全幅の信頼をおく恵みを願い求めながら、今日一日を共にささげて生きる者と変えられてゆきますように。

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