小野フランキスカの断崖
(あまんかい いけー ちけーねーらん)
(あぬ ばんたんかい……)
そんな声々が聞こえた気がして小野フランキスカは後ろをふり返ったが、だれの姿もその目には映らなかった。
視線を戻すと視界には青が、色とりどりの青が水平線のかなたまで広がっている。
小野フランキスカは石灰岩が隆起してできた絶壁の縁にたたずみ、風に身をなぶらせている。
何も言わずに出てきてしまった。
(だれも心配なんかしてないよな)と自分を偽りながら、小野フランキスカはひとりの顔を思い浮かべている。
怒ってるか、呆れてるか、いや、やっぱりなんとも思ってないか……
(さいごのだといいな)とまた自分を偽って、小野フランキスカは思考に蓋をする。
(〇〇ちゃんよ あちゃーから くまぬがまんかい せんしゃが ひーふちくむんでぃんどー)
だれかが逃げろという。
――待ってくれ わたしも 連れてってくれ
(いくさなー はいばいどぅやんどー)
だれかはいっしょには行けないという。
――待って おいていかないで
小野フランキスカはじぶんがそう叫んだ気がして、ハッとする。
(いまのはなに……?)
足もとのはるか下方、波打ち際に幾人ものひと……いや、ヒトのかたちをしたものが折り重なっている……
(え……)
小野フランキスカが目を凝らすと、それらは石灰岩の凹凸とそこに打ちつけては砕ける波頭に姿を変える。
さっきまでなんとも思わなかったのに、海風が腐臭を運んでくるように感じて、小野フランキスカは顔をしかめる。
小野フランキスカは、いつかだれかに聞いたことばを思い出す。
「ここの海は匂いが違うでしょう? ここはね よその海とは違ってね プランクトンが少ないの 海の匂いはね プランクトンが死んで腐った匂いなんです だからね 海の匂いは生きものの死の匂いなんだよ」
(わたしも死んで朽ちてしまえば、こんな匂いを放つのだろうか……)
小野フランキスカはそれを試してみたいような気になるが、実行したとして確かめるすべがないことに思い至る。
(こんなときナオがいればな……)
こんなとき、ナオが、いれば?
いれば、どうするって?
わたし、いま、なにを思った?
小野フランキスカはじぶんの思考に眩暈をおぼえる。
地面を正しく踏むことができない。
からだが重力から解き放たれるようだ……
(りく から は じゅう や たいほう、かえんほうしゃき、うみ から は かんぽうしゃげき で ねらわ れ まし た)
(いくさ てぃる むんぬ ねらんどぅん ありば あわり くぬ しがた ならん たしが)
(わたしが たすかったのはね てぃんがどぅやる さぁ)
(うんじゅんわんにん やーやわんにん かんぽーぬ くぇーぬくさー)
(ああ いちどだけでもさわって ほんとうのぬくもりを かんじてみたかったなぁ)
無数の、姿なき声々がきこえる。
ふいに小野フランキスカはじぶんの足が空を踏むのを感じる。
(あ、飛んだ……)
初速v0……
自由落下のはじまり……
ナオ……
飛んだ、と思ったその刹那、からだのどこかが強く掴まれて引っぱられる。
さっきまで立っていた草のうえに放りだされた小野フランキスカは、仰向けになったまま視界に映る空をみている。
隣には体温があり、荒い呼吸をくり返す身体のうごきがつたわる。
「ナオ……わたし、飛んだとき、ナオのこと思い浮かべてた」
ナオは喘ぎのあいまから短く「ばかやろう」と言い、また荒く息を吐く。
空は青く、ナオのからだは温かく、背中は草でちくちくする。
「フランキスカ」
呼吸を整えたナオがわたしの名を呼ぶ。
「おまえが飛ぶときはわたしもいっしょに飛ぶといっただろ かってにひとりで飛ぶんじゃない」
わたしは「うん」とだけこたえて、まだぼんやり空をみていた。
そうして、なんでいま隣にこのひとがいてくれるのかとか、ほんとうに考えなきゃいけないことあるんだけど、このあと「いっしょに飛ぶ?」って誘ったらまた叱ってくれるのかな、って考えはじめている。
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