小野フランキスカの断臂
小野フランキスカが目をひらくと、視線の先には電源の落ちた無影灯がある。
頭が、ぼんやりしている。
からだを動かす、ことができない。
手術衣を着せられたわたしは、手術台のうえに横たえられている。
視界の端に人影がみえる。
二人……いや、三人?
オペ服を着て、なにかを確認し合いながら準備、をしている?
オペ……? わたしの?
三人の人影が、横たわるわたしのすぐ傍に立つ。
帽子とマスクで覆われたすきまからのぞく顔に見覚えがあって、わたしははっとする。
ナオ……? 他の二人に指示を出している。ナオが、執刀医なの……?
ナオの横にいる背の低い女の子は? ああ、キャンパスでよく見かける子……
名前は、知らない。たまに、目が合う子……
もうひとりは反対に背が高い、男の人……男の子? アトルくん……?
団地を出たあと、会ってない。もうこんなにおおきくなったんだ……
「患者さん、目を開けました」
背の低い子がわたしの視線に気づいて、告げる。
「わかるか?」
ナオが広げた手のひらの指を折ってみせて、わたしの意識を確認する。
「あ、お……」
声がかすれる。
いろいろ訊きたいのに、舌が回らない。
「えぇ、ろおりゅ、こお?」
わたしを見下ろすナオの目が冷たい。
「いまさっきおまえの両腕を切断した 望みどおりな」
(え……)
そう告げられたが、感覚はなく、視界にも映らないから、確認できない。
わたしの困惑ともどかしさを察してか、ナオが「おい」と合図を送る。
背の高い男の子が「二本の」腕を抱えてきて、わたしの視界に晒す。
肩の付け根あたりから切断された左腕と、肘のすこし上で切断された右腕は、血の気が失せて作り物のようだ。
それが「わたしの」腕だといわれても、その二つの物体はもう「わたし」だとは思えなかった。
「ろおしえふぉんらこぉ? なんれあお? え、ね」
「あまりしゃべるな、ダンビィウェイナァスゥ これで終わりだと思うなよ、次は両肢だ おまえが納得できるまで続けるからな」
「なん、れ……?」
弱々しく問うわたしに、ナオは言う。
「ダンビィウェイナァスゥ、おまえがじぶんではじめたことだろ わたしはそれを見届けこそすれ、じゃまはしない」
(そんな……)
(……ばかな)って思いながら小野フランキスカは目を覚ます。
すぐに両手を動かし、肘を抱く。
…………ある。
はぁぁぁぁぁ〜〜〜っと深いため息がでる。
(なんだよ、夢かよ、よかった、ひどいよ……)ってぐちゃぐちゃの感情のなかに、芯から凍えるような冷たい何かが混じっているのを小野フランキスカは感じる。
小野フランキスカは思い出す。夢のなかで小野フランキスカを冷たく見下ろしていたナオのまなざし。それと、ダンビィウェイナァスゥ。
(ナオ…… わたしの名前、呼んでくれなかった)
腕がなくなることよりもこっちのほうがだんぜんいやだ、と思って、肩を抱く両手にぎゅっと力が入る。
(会わなくちゃ)
会って、ちゃんとわたしを見て名前を呼んでもらわないと、このいやな感じは消せないーー
小野フランキスカはいつもより雑にでかける準備をすませ、ナオへと急ぐ。
「調べものしてるから待ってて」とスマホが告げて、待てないわたしは学内でいちばんおおきな図書館へ向かってしまう。
地下の研究書庫にいると思ったのに、ナオは上の階のバックナンバー書架のあたりで古い新聞記事に目をとおしていて、早歩きで近づいて「もお、探したんだから」ってまわりの耳目を引くテンションのわたしに、あからさまに眉をしかめる。
わたしはまわりを気づかう声量で「勉強?」と訊く。ナオは「調べものだって言っただろ」と新聞を綴じた束に目を落としながら鬱陶しそうに答える。わたしはナオに怒られてもいいって気持ちで、ナオの顔から目をはなさない。さっきとおなじように声を落として「いっしょに来てくれない?」と誘う。ナオは「だからちょっと待ってろって」と苛立たしそうにささやき返す。わたしは「あとどれくらい?」って訊きたいのをがまんして「ん、待ってる」って言って、ナオのすぐ前の椅子に腰かける。じっと、ナオをみつめる。
不意に、ナオが手にしていた冊子を閉じる。
「あ、おわった?」と訊くわたしに、ナオはため息で答え、顔をあげてわたしをみる。「もうどうでもよくなった」と言って立ち上がったナオは冊子を書架に戻し、「こっち」とわたしをコモンズに誘う。
「なんなんだよ、もう……」
コモンズに入るや、ナオは不機嫌をあらわにする。
脈絡のないおかしな断片だけでおねがいしてもきっとナオをいらつかせるだけだ、そうしたら頑固なナオは意地でもおねがいを聞いてくれないかもしれない……
だから、小野フランキスカは今朝みた夢のはじめからきちんと話して聞かせる。
「……だからね、ナオにちゃんと、名前、呼んでほしくて」
おずおずと小野フランキスカが伝えると、ナオは「なんだ、そんなことか」と言い、慈愛に満ちた眼差しで小野フランキスカをみる。
そうして、「フランキスカ」とていねいに音にする。
それで小野フランキスカの胸に結んでいた氷は溶ける。
「ダンビィウェイナァスゥってのはさ」
ナオがスマホに打ち込んだ文字列を見せてくれる。
「これ漢字?」
「うん、断臂はわかるだろ?」
「腕を切る……?」
「そう、おまえが夢でみたとおりな」
小野フランキスカは切り離された二本の腕を思い浮かべる。じぶんのもののはずなのに、じぶんとは関係なく存在しているモノだっていうきもちわるさを思い出す。
「维纳斯は音を漢字にしてるんだけど……」
言いかけてナオがぷふっと吹きだす。
「夢とはいえさ、なんでわたしそんなこと言ったんだろな フランキスカなんかに」ってまた吹き出すので、まだわかってない小野フランキスカもなんだか失礼なこと言われてる?って思う。
「ミロのヴィーナスは両腕を失ったからこそ美しい、って言ってた詩人がいたろ?」
ナオのことばに、小野フランキスカはいつか聞いたことのある話だな、と思う。で、やっとさっきナオが吹きだしたわけがわかる。
「フランキスカなんかに?」
わざと怒ったふりをしてみせる小野フランキスカにナオが「ごめんごめん、ぷはっ」と謝りながら吹きだして、がまんできなくなった二人は「あはは!」と声をあげて笑う。
でも、わたしたちはそういうじゃれ合いの裏でこう考えている。
もし、あの夢につづきがあって、わたしのからだがちょっとずつ切り刻まれていって、さいごになにも残らなくなったら、そこにわたしは「いる」のかな? わたしをどこまで削ぎ落としたら、わたしはわたしと言えなくなる? たとえば首だけになったわたしを、ナオはさっきみたいに見てくれるんだろうか? 「なんだ、そんなことか」とナオはかんたんに言うけど、わたしは「そんなこと」だなんて思えない。ちゃんとわたしを見て、名を呼んでくれるから、わたしは「いる」んだ―― ねぇ、ナオはどう思う?
なぁ、フランキスカ。おまえが夢に見たことは、わたしはいつも考えてることなんだ。おまえのからだがどれだけ欠けてもどんなに損なわれても、わたしがおまえを感じられるかぎり、わたしはずっとおまえを見てるだろうよ。たとえばおまえが脈搏つ心臓だけになったとしてもわたしはおまえを抱きしめられるし、たとえおまえがすべてのかたちを失ったとしてもわたしはおまえの名を呼んでやる。だってフランキスカ、おまえはかたちあるまえにもう存在してしまっているんだから――
そのときのわたしたちはそれぞれの思いを口に出すことなく、あははと笑いあって、またいつもの日常に溶けていったんだ。
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