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(栖庫柾楠)の切断

 湿気を帯びたなまぬるい風が絡みつくように肌を撫ぜてゆき、どこからか漂ってくる甘やかな匂いが鼻腔を侵してくると、ああ帰ってきたな、と思う。

 栖庫すくらナオはバスを乗り継ぎ、かつて過ごした生家へ向かう。
 車窓からみえる建築の意匠や、リーフに囲まれた海の色、耳に入ってくる土地のことばなどはたしかにこの島らしいと思うが、それはあくまでもうわべにすぎない。

 そういう見て嗅いで聴いて触れて感じられるものより先に、栖庫ナオのなかに押しいってくるものがある。それまでどんなに離れていても忘れてしまっていても、この地を踏んだとたん、あっというまに全身全霊が「こちら」側にアジャストされてしまう。
 家や因襲や責務といったものからじぶんを切り離したつもりだったのに、からだを流れる血がいくすじもの蔓となってからみつき、きつく締めつけて、離さない。
 栖庫ナオにとってこの地に降り立つというのはそういうことだ。

 うんざりするきもちから目を逸らすように窓の外に目をやる。
 この島でよくみられる落葉広葉樹がその枝から無数の気根を垂れているのがみえる。「絞め殺しの木」とはよく言ったものだ、と思う。
 じっさい長く伸びて他の植物のうえに根を張った気根は、土台となった植物をときに「絞め殺し」てしまうし、太く成長した気根ならアスファルトやコンクリートでもたやすくつきやぶってしまう。

 さっそく服のしたで目にみえない気根がからだじゅうを這いずり回り、じわじわと締めつけてくるのを感じて、栖庫ナオはため息をつく。

(せっかく○○○○○○と○○○で○○○て○○○○だったのに)

 おかしな感じだった。栖庫ナオは、たしかにいま、あたたかい温度をもった感情を思い浮かべたはずなのに、ことばにしようとしたとたん、そこだけ霞におおわれてしまったかのように意識することができなかった。

(なんだこれ……)

 栖庫ナオは言いようのないきもちわるさを感じた。それは航空機のなかでもあった。じぶんはなにかだいじなものを忘れていると思っていたが、ちがう。
(忘れたんじゃない、奪われたんだ)

 なんだ? なにがわたしから奪われてしまった?
 みている景色のその先に、なにかがありそうで、だけど陽炎のように揺らめいて輪郭がつかめない。手を伸ばせば届きそうな気がするのに、あとすこしというところでするりと指先をすり抜けて遠ざかる。

(くそ……)
 栖庫ナオは悪態をつく。
 里に近づくにつれ濃くなっていく栖庫の血が、異変を異変だと告げている。
 来るべくして来たってことか―― 栖庫ナオは仰々しく構える生家の門前に立ちながら運命めいたものを感じて、ぎゅっと奥歯を噛み締める。

(運命なんて、だいっっっきらい)



「おかえりなさい、お嬢」

 ちょうど表に出ていた庭師の當眞とうまさんが涼やかな声で出迎えてくれる。
    ナオは「ただいま」と答え、「お嬢はやめろっていってるのに」といつもの不満を口にする。當眞さんはわたしがいやがってるのをわかっているのに「お嬢」と呼ぶのをやめない。

「じゃあ、当代とでも?」
 當眞さんは涼しげな顔のまま悪びれもせずそういったが、わたしはまだ当代じゃない。そう言おうとしたら、當眞さんはわたしの先を制するように「そのために戻ってこられたのでは?」と言った。

 わたしが「わからない」とだけ言って黙ってしまうと、當眞さんは「そういえば」と話題を変えて「小野さまはお元気ですか?」と訊いてくる。

「小野さま?……って、どの小野さまだ?」

 ほんとうにわからなかったからそう返したのだけど、たぶんわたしの答えは當眞さんの予期しないものだったのだろう。いや、予期しないどころか、かなり不穏なことを口にしたらしい。だって、それまで涼やかだった當眞さんの表情がいっしゅんで曇ったから。

 しかし當眞さんはつとめて冷静にわたしを気遣ってくれる。
「お嬢はお部屋に    しばらく休んでからゆっくり当代のところへ」
 わたしは「ありがとう、そうする」とだけ答えて、はなれの自室に向かう。

(やっぱりわたしはなにか大事なものを失っている……)

 當眞さんの口ぶりだと、それは「小野」に関することらしい。それも、「栖庫の家」と「小野」との因襲なんかじゃない。當眞さんが「小野さま」と言ったとき、それは総称としての「小野」ではなく、だれかひとりの名として呼んでいた。栖庫の家のなかでわたしがいちばん信頼する當眞さんだ。そのことばに嘘はない。

 だとすると、わたしが失ったものは「小野」ではない。わたしにとってたいせつな、ひとりのだれかだ。
 奪われたままってのは性にあわない。
    それがだれだかわかんなくても、そのだれかがわたしのことを拒んでるとしても、そんなの知らない。ぜったいに取り戻さなければならない……
 ナオは疼く胸をぎゅっとおさえつける。



「いいか、なお栖庫すくらは小野のために切るか切られるかする役目を負っているのだ。いつかおまえも栖庫の当主になるときがくる。そうすればいやでもわかる」

    まだナオが小学生だった頃、父に言われたことばを思い出す。
    あのとき、どうして父はそんなことをわたしに伝えたんだっけ……    ひとつひとつ重いものを下ろすように話す、そのときの眼差しがほんとうに悲しそうにみえたから、わたしは気勢を削がれてしまったんだ。

(気勢……?)

……そうだ、あのときわたしは父に食ってかかっていた。だが、なんでだ? まったく思い出せない。ナオは記憶にかかる靄を鬱陶しく思う。

 「直」とわたしの名を呼ぶ声がして、わたしの待つ部屋に父が入って来る。
 父はわたしのまえに腰をおろし、「さて、なにから話そうか」と口を開く。その眼はやはりほんとうに悲しそうでーー

 それからわたしは父の長い長い昔ばなしを聴いた。



■栖庫柾楠の長い長い昔ばなし

    栖庫すくらの当主となるものはみな、「小野」と深く交わる。皮肉な言いかたになるが、栖庫と「小野」とのあいだにはそれこそ「切っても切れない」絆がある。わたしもそうだったし、直、いまは忘れていようが、おまえもそうだ。
 栖庫は「小野」なしではありえず、「小野」もまた栖庫なしではありえなかった。
    栖庫と「小野」の因縁がいつからつづくのかはわからない。一切の記録をのこすことが固く禁じられてきたからだ。わたしたちは口と耳、そしてひと振りの刃によってのみ、代々その絆をつないできた。
    これからおまえにわたしの知るすべてを伝えねばならないが、いまはまず栖庫のことから話そうかーー


 わたしの祖父、おまえからしたら曽祖父にあたる柾楠は、名を猛夫たけおといった。わたしが六歳になる年にこの世を去ったが、わたしが物心ついてからの猛夫はすでに廃人といってよい状態だった。精神が壊れていただけじゃなくからだじゅうが欠損していたから、子どものわたしにはただただ恐怖の対象だった。

 猛夫のからだのことは戦争で負った傷だと聞かされていた。1919年生まれの猛夫が二十歳になり徴兵検査を受けたとすれば1939年、すでに日中が開戦してから二年が経つ。太平洋戦争の始まる1941年以降、各地で召集兵が増員されていた時期を考えれば、猛夫もまた戦地に赴き、傷を負って帰ってきたという話にはそれなりに信憑性があった。

 だが真相はちがっていた。猛夫は戦争に行っていなかった。正確には行けなかった。徴兵検査を受けるまでもなく、そのころの猛夫はすでに戦地に赴くことなどとうていできないほど身体を欠損していたからだ。

 はじめは兵役逃れの疑いがかけられた。だが、自傷にせよ身内が手を貸したにせよ、片目を抉り、十指を損ない、片足を断ち切るという手口はあまりにも猟奇がすぎるということで、追及はやんだ。

 むしろ、戦後、曲がりなりにも日常と呼べるものが戻ってきてからのまわりのひとびとのもの言わぬ目のほうが辛辣だった。
    直接ことばをぶつけるものこそなかったが、集落しまのひとびとの目はこう言っていた。同胞の四人に一人が命を落としたあの鉄の暴風を、それも最後まで激戦地だったこの土地で、そんなからだでなぜ生き延びることができたのか。家族に頼ることすら難しかったあの戦さで、もとからの欠損以外に無傷で済むとはよほどの強運の持ち主か、そうでなければ魔物マジムンと取り引きを交わしているにちがいない、と。

 古来、神との結びつきが強いこの島で、神に仕えるものたちのどの系譜にも属さない栖庫は、ひっきょう、異端だった。
 戦場にもいかず、生きながらえて、のうのうと暮らしている栖庫は集落のひとびとからあからさまに忌み嫌われた。
 だが、栖庫が生きていくのに困ることはなかった。
 むしろ集落のひとびとが栖庫を嫌いながら栖庫に頼るしかないほどに、栖庫は富み栄えていた。
 なぜならひとびとが言うように、たしかに栖庫は魔物と取り引きをしていたからだ。
 魔物の名を、「小野」という。


 当代・栖庫すくら柾楠まさくすは深く静かに息を吸い、またゆっくりと吐いた。話はつづく。

「栖庫は小野のために切るか切られるかする役目を負う」

 そう言えば、そこに選択の余地があるように聞こえるだろう。だが、じっさいのところ、代々の栖庫は「切られ」てばかりだったのではないか? わたしはそう思っている。そうでなければ、いまのいままで、栖庫の家がつづいているとは思えないからだ。

 では、栖庫柾楠は、だれに、どうやって、何のために「切られ」るのか?
 それをこれから話そう。


 栖庫の当主となるべき人間は、ものごころつくまえには「小野」と出会い、「小野」とともに過ごす。「小野」さえいれば他にはなにもいらないと思うほどに、「小野」と分かちがたく結びつく。

 そうやって「小野」とともにあった栖庫は、先代の跡を襲う際にひと振りの刃を授かる。

    刃は名を「ベアグノズ」。刃渡り55cmの片刃の鉄剣で、刃の両面に銅・真鍮・銀の象嵌がほどこされ、片方の面には「ベアグノズ」の銘が刻まれている。
    これもまた、いつから栖庫とともにあるのかわからない。ただ、代々の当主によって受け継がれ、「小野」のために切るか切られるかする役目を負った。

    刃を授かり柾楠となった栖庫は、「小野」にこう問われる。

「なぁ、柾楠 おまえはわたしを切るかい? それとも、わたしに切られたい?」

 代々の柾楠が「切られ」るほうしか選ばないのだとすれば、その問いかけ自体はかたちだけの儀式にすぎない。それでも決まってそう問われた。

 「切られ」ることを選んだ柾楠は、そのからだの一部を「小野」に差し出すことで、ふつうでは考えられないほどの富と加護を得た。そして、「小野」は柾楠のからだから生気を得てみずからを若返らせた。
 柾楠が手にする富と加護は、「小野」の若返りの度合いに比例した。つまり、差し出すからだの部位や量に比例した。

 そうやって、栖庫は家を存続させてきたし、「小野」はみずからを存在させてきた。
 信じがたいことかもしれないが、栖庫は代々別の人間によって受け継がれていくが、「小野」はずっと「ひとつ」なのだ。いや、いまは「ひとつだった」と言うべきか……


 いったん話を戻そう。
 猛夫は十八の年に柾楠となり、すぐに「小野」に「切られ」ることを選んだ。おかげで戦時下を生き延び、戦後も生活に困窮することなく、栖庫の家を存続させることができた。
 あの激しい戦火を生き長らえ得たことは猛夫自身にも思うところがあったのだろう、すでに一代が栄えるのにじゅうぶんな富を得ていたにもかかわらず、猛夫はじぶんのからだを切り刻んでは、「小野」に捧げつづけた。
 そのたびに得た報酬で猛夫は放蕩のかぎりを尽くし、そのたびに「小野」は若返った。あまりにも「小野」が幼くなりすぎたとき、それ以上若返ってしまうと「小野」との取り引きが成立しなくなるのではないかと不安になった猛夫は、そこでようやくみずからのからだを切り刻むことをやめた。
 欲に眩んで襲名を渋っていた猛夫は、死の前年、ようやく一人息子の雄高ゆたかに跡を譲った。ときに猛夫は六十三、雄高はすでに三十七歳となっていた。

 終戦の年に生まれた雄高は戦争を知らなかったから、猛夫がなぜそこまで柾楠の地位に執着するのかわからなかった。いつまでも跡目を譲らぬ父親を強欲で愚かな男だと蔑み、嫌った。じぶんひとりではなにひとつできないからだとなり、なにからなにまで家族の世話になりながら、偉そうに家族に指図する猛夫をこころの底から憎んだ。

 「小野」は猛夫との結びつきが途絶えなかったから、そのあいだ雄高にとっての「小野」は現れなかった。雄高は「小野」との結びつきをもたないまま成長し、柾楠を襲名した。
 雄高のまえに「小野」が現れ、例の問いを投げかけたとき、「小野」になんの思い入れもない雄高は「小野」を得体の知れない魔物だとみなして、切ってしまおうかと考えた。
 「小野」の話すことを聞き、父猛夫がしてきたことの意味を理解すると、一転して「切られ」ることを選択した。

 だが、長年、父のことを恨み見下してきた雄高は、父とはちがうもっとうまいやり方はないかと考えた。みずからを傷つけず、うまい汁だけをすすれる方法はないかと思案した。ばかな話だが、そうすることが猛夫への積年の恨みを晴らすことになると考えたのだ。

 そのころ、雄高には二人の子がいた。兄を高志たかし、弟を与志よしといった。そう、直、おまえは知らないだろうが、わたしには三つ上の兄がいたのだよ。
    高志はとてもやさしい兄だった。幼いわたしはいつも兄のあとをついてまわり、兄はどんなときでもわたしをかわいがってくれた。兄がいればこの世のどんな悲しみも苦しみもどうにかなるという気がした。

 雄高はみずからを損なわず「小野」に栖庫の身を捧げるために、息子のうちのどちらかひとりを身代わりにすることを考えた。
 兄・高志はその頃から聡明であり、栖庫の跡取りとして期待されていたから、必然的にわたしが身代わりに選ばれることとなった。
 そのころまだ五歳になったばかりだったわたしはなにもわからなかったのだが、聡明な兄・高志はわたしの身になにが起ころうとしているのか察した。
 父に嘆願し、わたしの命を救う代わりに、みずからの身を捧げることを申し出た。雄高ははじめ渋ったが、高志の熱意に押されてとうとう最後は折れた。

 ある朝、わたしが目を覚ますと、いつもやさしくわたしの手を引いてくれていた兄の姿は消えていた。
 兄はどうしたのかと訊いて回るわたしをだれもが憐れむような目で見ては、なにも教えてくれなかった。わけがわからないわたしはなんども父を問い詰め、父はいいかげん鬱陶しくなったのか、兄がわたしの身代わりとなったことを告げた。
 そのときの父の顔をわたしはいまでも忘れない。「悪かったなぁ、与志」といいながら少しも悪びれたようすがなく、口もとはいやらしい笑みに歪んでいた。「おまえはいい兄さんをもったなぁ」という父のことばを聞きながら、わたしはぜったいにこのひとを許さないと思った。

 しかし、父・雄高はその後三年と経たずにこの世を去った。富を得るには得たが、じしんを傷つけずわが子を犠牲にするやり方がことわりに反していたせいなのかもしれなかった。
 その証拠に、高志のからだを捧げられた「小野」は消滅した。かつて猛夫が心配していた若返りの上限を超えてしまったのかも知れなかった。
 だがそんなことはどうだってよかった。やり方がどうであろうが、わたしにとってはぜんぶが邪法で、許すことのできない悪だった。栖庫の家そのものを壊してやりたいと呪った。
 それなのにわたしは復讐の相手を失い、きもちの矛先をどこに向けていいのかわからなくなった。

 当主を失った栖庫を、まだ十歳そこらの子どもが継ぐわけにはいかない。猛夫や雄高の代から仕えていたひとびとの多くは、とっくに栖庫に愛想を尽かしていたのだろう、この機に乗じてほとんどのものが栖庫から去った。
 幼いわたしを不憫に思ったごくわずかのひとだけが栖庫にとどまり、わたしが成長するまで支えてくれた。いま庭師をしてくれている當眞とうまはそのなかのひとりの後裔だ。どんなにひとがいいか、なお、おまえにもわかるだろう。


 それまで伏し目がちに話していた当代・柾楠まさくすが顔をあげてナオを見つめる。ナオは頷きで返す。それまで、理解できないと敬遠していた父との距離がすこしだけ近まった気がした。
 柾楠はナオの頷きに励まされるかのように、話をつづける。

ーーそんなときだった。わたしのまえに「小野」が現れたのは。

 小学生だったわたしのクラスにひとりの転校生がやってきた。名を小野ハルバードといった。肌が透けるように白く、淡い金色の髪がうつくしい少年だった。
 クラスのみなはハルバードに興味津々だったが、ハルバードはその最初から、わたしにだけとくべつ親しくふるまった。
 どんなときでも傍にいてくれ、やさしく相手をしてくれるハルバードは、まるで消えた高志たかしそのものだった。ハルバードは兄を失ったわたしのこころのすきまにするりと入り込み、わたしは彼のすべてを信頼した。

 中学、高校もずっとハルバードとともに過ごしたわたしは、ハルバードさえいれば他にはなにもいらないと思うようになっていた。それは恋といってもいい感情だった。いつまでもハルバードといっしょにいたい、そう願った。

 わたしが大学を卒業する年、正式に栖庫すくらの跡を継ぐことになった。名を与志よしから柾楠に改め、ひと振りの刃・ベアグノズを授かった。

 そうして、ある日、わたしはハルバードから問われる。

「ねぇ、与志 きみはぼくを切りたい? それともぼくに切られたい?」

 わたしにはハルバードがなにを言っているのかわからなかった。ハルバードは、それまでと変わらないやさしい声で、じぶんは「小野」だと告げた。

「きみのからだをちょうだい そうしたらぼくがきみをしあわせにしてあげる」

 わたしは耳を疑った。できれば聞きたくなかった。消え失せたと思っていた栖庫と「小野」への怨讐がいっきによみがえってきた。栖庫に生まれたことを恨んだ。柾楠の名を継がなければよかったと悔やんだ。だが、それは願っても叶わないことだった。なぜなら、すべてそうなる運命だったから。

 わたしはハルバードにかつて疑問に思っていたことを訊いた。
「おれがおまえを切ったら、どうなる?」
 ハルバードはいっしゅんだけ顔をひきつらせたように見えたが、にこやかな笑みを絶やさずにこう言った。
「きみがぼくを切ったら、ぼくはこの世から消滅するよ。死ぬとかそういうことじゃなく、ことばの正しい意味でこの世から消えるんだ。それを栖庫が望むとは思えないけれど?」
 忌ま忌ましかった。だが、これまで聞き及んでいたことの真相を確かめたかったわたしは、また尋ねた。
「おれがおまえに切られたら、おれが手にするしあわせとはなんだ?」
 ハルバードは相変わらず笑顔のまま答える。
「一生かけても使い果たせないほどの富と、どんな災いからもきみを守ってくれる加護さ」
 そんなことも知らないのかいと言いたげな調子だったが、わたしにはそんなものはいらないと思われた。(そんなものがおれのしあわせだと?)わたしは、ハルバードがわたしのきもちをなにひとつ理解してくれていなかったことに失望した。
「きみがぼくに切られれば、栖庫の家は栄える。ぼくはこの世に存在する時間を引き延ばせる。わるい取り引きじゃないと思うけど」
 わたしのきもちを知りもしないハルバードのことばは、わたしに失望を重ねるだけだった。
 それでもわたしはさいごにもうひとつだけ気になっていたことを訊いた。
「それ以外には? 他になにか支障はないのか?」

少しの間をおいて、ハルバードが口を開く。
「じつはね、きみのお父さん、いやお兄さんのからだをもらったあと、ぼくのあり方がちょっと変わってしまったみたいなんだ。きみがぼくに切られれば、きみはぼくに関する記憶を失ってしまうだろう。次の栖庫がこの世に生を受けたとき、またぼくはあたらしい栖庫のまえに現れるだろうけどね。だけど、きみがぼくを切っても、きみはぼくのことを忘れないらしいんだ。まったくへんな話だよ」

 ハルバードは、あまり言いたくないことをひと息に言ってしまいたいという感じで、早口にそう言った。わたしは「すこし考えさせてくれ」と言って、ハルバードと別れた。

 わたしのなかでは、相反するふたつのきもちがぶつかりあい、争っていた。

ーー栖庫と「小野」の因襲などクソくらえだ。
ーーだが、わたしには栖庫の当主としての責務がある。

ーー兄をわたしから奪った「小野」は憎い。
ーーだが、兄同然にわたしに接してくれていたハルバードはすきだ。

ーーおれがハルバードに切られれば、ハルバードとの思い出が消える。
ーーおれがハルバードを切れば、ハルバードとの思い出は残る。

 これ以上ないくらい、悩みに悩んだ。
 そうしてわたしはハルバードにふたたび会った。ひと振りの刃・ベアグノズを携えて。

 なぁ、なお わたしは、ハルバードを切ったよ。


 このとき、ナオははじめて父を理解したと思った。
 その悲しそうな眼差しの意味も、小野の話を聞きたがらなかったわけも、なにもかも理解できた。じぶんもおなじ立場だったらそうしたはずだと思った。

    当代・柾楠は罪の告白でもするかのように声をしぼりだす。

――しょうじき、そのときのわたしには復讐などどうでもよくなっていたのだ。それ以上に、ハルバードと過ごしたしあわせな記憶を失いたくなかった。消えた兄と過ごしたかもしれなかった夢のつづきを、記憶から消したくなかったのだ。

    手に提げたベアグノズをそのまま振りかぶるわたしを、ハルバードは信じられないものを見るような目でみていた。
    やめろ、ばかなことをするなと、ひきつった顔が言っていた。
    ハルバードの見開かれた両の目が振りおろされる刃の軌道を追っていた。
    だが、なお、わたしの刃がハルバードのからだに触れるしゅんかん、ハルバードはわたしをみてにっこりほほえんだんだ。まるで、兄がわたしに心配ないよと笑いかけてくれたときのように――


    ナオは黙って父の顔を見つめる。
    襖がひらき、當眞とうまさんが立っていた。両手に桐の箱を抱えている。父が手招きをし、當眞さんは桐の箱をわたしと父のあいだに置く。

「こんな話のあとにどうかとも思うが…… なお、そろそろわたしはひとりの与志よしに戻ろうと思うんだ」

    それはつまり、わたしに栖庫柾楠の名を継ぐということだ。
    だが、父は栖庫が絶えてもいいと、そういう話をしたのだ。だからいまのわたしにはわかる。父は柾楠を継がなくてもいいと言っている。
 その父は、柾楠を継ぎながら、運命に立ち向かった。
    運命だったらだいきらいだけど、わたしがじぶんで選ぶ道なら、それは運命ではない。
    わたしは桐の箱の封印を解き放ち、蓋をあける。なかにはひと振りの刃・ベアグノズ。そっと手を伸ばし、持ちあげる。重い。
    わたしはそれを胸に抱きかかえ、父に告げる。

「じゃあ、わたしが柾楠をやってあげるよ    いままでおつかれさま」



    父はわたしが断ると思っていたのだろう。いっしゅん驚いた顔になり、それから「ありがとう」と言った。なにに対する感謝なのかわからなかったが、(いまは考えないでいいや)とナオは思った。

    父は、「おまえが襲名したら話そうと思っていたつづきがある」と前置きしてから、こんな話をした。

「わたしがハルバードを両断したあと、ハルバードのからだは砂のようになって消えた。ハルバードのことばのとおり、この世から消滅したのだと思った。だが、ハルバードのからだが横たわっていた場所に一個のちいさく光るものがあった。しばらく見つめていると、それはふいに浮かび上がり、空中を舞ったかと思うと、意思をもつ生き物のように飛び去った。あとを追うと、それはわたしの家に向かい、なかに入っていって消えた。

  それからしばらくして、わたしはひとりの女性と結婚をし、その女性はおまえを身ごもった。まもなく生まれるというときになって、彼女はおかしな夢をみたとわたしに語った。聞けば、ちいさく光って飛ぶ蛍のようなものがお腹のなかに入ったのだという。それを聞いてすぐに、わたしはハルバードを切ったあとにみた光のことを思い出したが、よくある夢の類いだと深く気にとめなかった。

 だが、その予感は当たっていた。彼女が宿していたのはおまえひとりだったはずなのに、生まれてきたのはおまえと、もうひとりの女の子だったのだ。へその緒もなく生まれてくるいのちなど医学的にありえない。ありえない話だったが、鷹揚な彼女はその事実を受け入れた。
    受け入れられないのはむしろわたしの方だった。わたしはその子を即座に「小野」と結びつけた。ぜったいに栖庫に、なお、おまえに近づけてはいけないと思った。棄ててしまいたかったが、その子を気にかける妻を傷つけることもできず、わたしはその子を隔離して養う道を選んだ。できることなら、おまえがその子と接触しないでほしいと祈った。
 だが、気がつけばその子はおまえと出会い、おまえにとってかけがえのない存在になっていた。
 その子の名は、小野フランキスカという」

    ナオの目が見開かれる。
(フランキスカ?)
    記憶を覆っていた靄が強い風に吹かれ、散っていくかのように、鮮明に思い出すものがある。
ーーなんだよ、フランキスカ。気がついたらいつも傍にいたと思っていたけど、生まれるまえからいっしょだったんじゃないか。
 でもな、フランキスカ。わたしはこれを運命だなんて思わないから。
 おまえがわたしを見出だして選んでくれたように、こんどはわたしがおまえを選ぶんだ。
(そうだ、フランキスカ    わたしはおまえを探して見つけてやるんだ)

「思い出しましたね」
    當眞さんが涼やかな笑顔でわたしをみている。

「直、いや柾楠まさくす。おまえは切るでも切られるでもない道をいけ」
    父が言う。

「うん」
    わたしはふたりを交互にみつめる。
    からだを這っていたあの蔓や気根の気配はもうない。

 わたしが失ったものは、わたしにとってたいせつな、ひとりのフランキスカだ。
 奪われたままってのは性にあわない。
    それがだれだかわかったいま、そいつがわたしのことを拒むとしても、そんなの知らない。
(ぜったいに取り戻す)

 だからふたりにこう告げて。
「ちょっと取られたものを取り返してくる」

   そうして、運命ではないほうの、じぶんのゆくべき道へと、一歩を踏み出す。



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