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(安門良アトル)の油断

安門良あとらアトルは、ほんの数瞬まえまで胸を踊らせていたじぶんはバカだったなぁとふりかえる。

いまは、街灯を反射する鈍い光から目が離せない。その光は持ち主の両手にしっかり握られていて、切先は正しく安門良アトルに向けられている。さっきあんまり期待しすぎたから、アトルと光るモノとの距離は2メートルもないってくらいに近くて、あいだに遮るものはなにもない。

耳の奥で声がする。

(もしわたしが襲われたら、アトルくん守ってね)

だからそれはむりなんだって。いまだってぼくはきみの名前を思い出せないんだから……

刃物を構える女の子の目は見開かれたまま、瞬きひとつすることなくアトルに注がれている。アトルがちょっとでも動けばそのからだごと飛び込んできそうだ。

(ひとに刃物を向けるのって、やっちゃいけないことだって教わんなかったのかなぁ)なんて場違いなことを考えながら、安門良アトルは打つ手がないことに絶望する。

こんなときなにをするにしても、まずは相手の子の名を呼ぶところからはじまると思うんだけど、ざんねんながら(←これはほんとにそう)ぼくはきみの名前を思い出せない……

たとえ思い出せたとしても、この子の胸の奥にタッチして、気持ちや行動を変えることができるようなことばをかける自信は、安門良アトルにはまったくなかった。

(きみと、いつどこでなにをしたのか、まるでおぼえてないんだもんな)

きっと、いつでも、どこでも、どうだっていいことしかなかったはずだけど、この子にとってはそうじゃなかった?
だから、いまこうして、ぼくに刃物を突きつけている。
それは、ぼくを指向する猫なで声や指先が、そのかたちを刃物に変えたってだけで……


「ねえ、ちょっと話そうよ」

安門良あとらアトルはできるかぎりのぬくもりを込めたつもりで、ことばをかける。
(届いてくれ)

「きみと話がしたいんだ」

それは嘘だけど、本心からそう願っているんだというように。
(届いてくれ)

「おねがいだから」
(たのむ、届いてくれ)

彼女の口からかすかな声が漏れる。
「⋯  ⋯  ⋯  ぃ?」
かすれた息のようにか細くて、アトルは聞き取ることができない。
「わた  ⋯  ⋯  ⋯  ねが  ⋯  ⋯  き  ⋯  て  ⋯  ⋯  なか  ⋯  ⋯  のに?」

「ごめん、ちゃんときく」
(だから、おねがいだから、届いてくれ)

「あっ!!  あ、あ!  ああああああっ!!」

女の子が表情のない顔で、口をおおきく開いて、叫ぶ。

「ほんとうだよ、だから、話そう?」

アトルはこれが最後のチャンスかもしれないと思って、いままでひとにかけたことのない最大級のぬくもりをことばに込める。
かつて小野フランキスカがアトルに注いでくれたぬくもりを思い出して。
かつて小野フランキスカがアトルにくれたぬくもりのまねをして。

「み  ⋯  ない」
「え?」
「み、てない……」
「見てない?    なにを?」
すぅっ、と息を吸う音がする。

「あんたは、わたしを、みてない!!っつってんの!!」

「え……」
じぶんのことばがまったく届かなかったばかりか、図星をさされてしまった動揺で、安門良アトルは二の句が継げない。

女の子が刃を構えなおす。
さっきまでの狂気じみた見開かれた目じゃなく、ちゃんとアトルを見て、睨みつける。
ちゃんとアトルに向かって、踏み出す。
跳ぶ。

(あ……)

女の子がからだごとぶつかってくる。
アトルのとっさに出した手のひらの骨のあいだをぬって、肉を貫く感触がくる。
硬い物質の違和感があり、遅れて痛みがやってくる。
刃物が引っこ抜かれる。
女の子は腕をひいておへそのあたりに構え、次の刺突の準備をする。

(ひとの思いを受け止めるのってこんなに痛いのか)

安門良アトルは持っていた通学鞄で防ぐこともできたはずだったが、むしろ鞄をかばうようにふたたび両手をまえにつきだす。
二撃目は伸ばしたアトルの袖口から腕の側面を抉り、とっさに曲げた肘にはじかれる。
切り裂かれた制服の袖が黒っぽく染まっていく。破れた袖の内側では、手首のあたりから肘までを深く切り裂かれて、血の滴る肉と腱が剥き出しになっている。

女の子とアトルの息があがる。
おたがい、次が最後だと思う。
女の子はアトルの血に濡れた刃を三度構える。
アトルはしろくまのぬいぐるみキーホルダーを血で汚したくなくて、鞄を後ろに放り投げる。

(ごめん、フランちゃん    もう会えないかも)

安門良アトルが覚悟したとき、離れた場所から「おい!」と呼ぶ声がする。

それで女の子はくるりと背を向けてその場から立ち去り、アトルはその場に座り込む。


ひとの駈ける足音が近寄ってくる。
安門良あとら!」とぼくを呼ぶ声がする。

(こいつは……)

傍にきて「どうしたんだよ?」って訊く彼に、ぼくはずたぼろの腕をあげてみせる。彼は「うわっ」と声をあげ、「いや、病院病院」って慌ててスマホを取り出すから、ぼくは「ちょっとまって」と彼を止める。

ぼくはいまここで起こったことを、ことばにできる範囲で話して聞かせる。
そして、事の真相を隠したいってこと、そのためにはよくできた嘘をひとつ用意しなきゃならないってことを伝える。

「ねえ、おねがいがあるんだけど」
ぼくは、また名前を思い出せない彼をみて言う。
「協力してくんない?」


ーーこういうご時世だから、いつなんどき、女の子を守らなきゃいけなくなるかわからないですよね? 
ーーで、真剣白刃取りの練習をしていた、と そういうこと?
ーーええ、まあ
ーーきみがうっかり手を滑らせて? 腕に裂傷を負わせてしまった? 合ってる?
ーーですです
ーーこんなに深く?
ーーほんと、もうしわけないっす
ーーいや、わたしに謝ってもしょうがないから それでこっちの、手のひらのほうは? 驚いた拍子についた手の置きどころが悪くてうっかり刺してしまった、そうなの? こんなに穴があくくらいに?
ーーそうなんです いやあ、ぼくはまぬけだなあ
ーーじゃあ……手術になるからおうちのひとに連絡して そっちのきみもだよ、これだけの怪我、させてるんだからね

緊急外来でのやりとりはまあこんな感じで、即興でこしらえた嘘にしてはまあまあうまくいったんじゃないかと思ったけれど、仕事を途中で切り上げて病院に駆けつけてきた母親からはこっぴどく叱られたし、彼の親は彼の親でぼくの母親に平謝りするわ彼を怒鳴りつけるわで、たいへんだった。

彼が帰ったあと、母親はぼくに「あんたね、春鳥はるとくんにへんなことおねがいするんじゃないわよ」と言う。
ぼくはその「へんなこと」が即席の嘘のほうを指してるような気がして、ちょっとどきっとする。

そうだ、思い出した。
彼の名前は春鳥はると。おなじクラスの、小野、春鳥。

ひとの名前もおぼえずそもそもひとに関心をもてないぼくのことを、なぜかおもしろがっていて、他の子たちがぼくから離れていっても春鳥だけは飽きずにぼくにからみつづけていた。
いつも名前を言えないぼくに「おれは小野春鳥だよ」って毎回名乗ってくれるのも彼だけだったし、「出席番号近いんだからいいかげんおぼえろって」ってずっと言いつづけてくれたのも彼だけだった。
だからぼくも、へんなやつだなっておぼえてたんだ(名前はおぼえてなかったけど)。


ハンバーガーショップについてきた子も、ぼくを刺した子も、小野春鳥も、かたちは違えど、だれかを積極的に指向して、ことばをかけ、肌に触れ、思いを向けることのできるひとたちだ。

ことばや触れてくる身体、向けられる思いは、やさしさやいとしさの場合もあるけれど、だれかを殴って刺して傷つけることだってある。
どんなことばがひとをよろこばせ、どんな触れかたがひとを傷つけるのか、わからない。わからないから、ひとにことばをかけたりひとに触れようとすることはこわいんだ。
だから、ぼくに(ひとに)積極的に関わろうとしてくるひとたちをぼくはすごいなって思うし、それとおなじくらいこわいなって思う。

好意を向けられても、それに見合うような好意をぼくは返すことができない。
それはもうしわけないって思うから、最初からぼくにかまわないでほしいってだけなんだ。

だけど、今日、わかった。
ひとにちゃんと関わろうとするのなら、だれかを傷つけたり、だれかに傷つけられたりすることを、いちいちこわがっていられない。
ぼくに刃物を突きつけてきた子はぼくを傷つけたけれど、彼女もぼくに傷つけられている。
小野春鳥はきっと毎日ぼくに傷つけられているはずなのに、ぼくを傷つけることを厭わずぼくにかまいつづける。
ぼくは、ぼくを刃物で傷つけた子のことを思い、小野春鳥にむちゃな協力をおねがいし、医者のまえで下手な芝居を打って、嘘を吐きとおした。

だからぼくは、もうちょっとちゃんと、ひとと関わってみようかなって思う。
まだ幼なかったころのぼくは、なにも考えずフランちゃんの胸に飛び込んでいた(よくできたなって感じだ)。
あのときフランちゃんはぼくをどんな気持ちで受け止めてくれてたんだろう。
こんどフランちゃんに会うときに、ちゃんと聞いてみようって思うんだ。



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玻名城ふらん(hanashiro fran)
ちゅーる代