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小野フランキスカの断琴
水星には無数のクレーターがあって、そのうち名前のついている429個のクレーターは、大半が地球の著名な芸術家に由来する。
そのなかのひとつ「Po Ya」は、春秋時代・晋の大夫であり、琴の名手として知られる伯牙のことだ。かのボイジャーのゴールデンレコードには伯牙作と伝わる曲が収められているというから、地球を代表するアーティストといって過言ではない。
伯牙には鍾子期という友がいた。鍾子期は伯牙の奏でる音を聴くだけで、伯牙の心境を正しく理解した。鍾子期の没後、伯牙は(もう自分を理解してくれるひとはいない)と嘆き、爾来二度と琴を弾かなくなってしまった……
ねぇ、きみ、それでも地球を代表するアーティストなの? いや、当時の伯牙はボイジャーの件を知らないか…… だとしても大国を代表するアーティストではあったわけで、それがたった一人の死を理由に音楽活動をやめてしまうってどうなの? 優先順位まちがえてるよね?
小野フランキスカはそうつっこみながら、この伯牙の優先順位の狂い方に共感をおぼえていた。
(出会ってしまったんだな……)
自分のなかの、わかってほしい部分をわかってくれる存在に。このひとにこそわかってほしいと願っている存在から、わかってもらえるという奇跡に。
(だったら、しかたないな……)
伯牙だってはじめは琴を奏でることが好きだったから音楽家になったはずで、そこには奏者と楽器、奏者と楽曲との関係しかなくって、他者の割って入る余地はなかったはずだ。
ひとに聴かせるってことを始めると、じぶんのパフォーマンスがどのように受けとめられるか気になりだして、より多くのひとに好感をもって受けとめられたいと思うようになる。自分の表現したいものと聴衆にウケるものとのあいだで葛藤が生じるのもこの段階かもしれない。
そうして好意的に受けとめられた場合でも、それはパフォーマンスや作品だけが評価されるのが常で、じぶんの胸のうちまで「正しく」汲んでもらえることは稀ではないか。正しく理解してもらうために解説をほどこすこともありえなくはないが、アーティストとしてそれは野暮であり、蛇足だというふうに考えるなら、表現されたものは、表現された瞬間から表現者の手を離れ、受け手に委ねられる。
そんななか受け手におもねりもせず、よけいな講釈もたれず、じぶんの弾きたいように弾いているその胸のうちを正確に言い当てられたとしたら、彼のためだけに表現したいと思ったとしても、それはもうしかたのないことだ。その彼がいなくなったとき、表現する動機を、情熱を失ってしまったとしても、それもまたしかたのないことだ。
小野フランキスカは思う。
伯牙にとって鍾子期の存在は奇跡だったし、表現者冥利に尽きることでもあっただろうけど、同時にアーティストとしての優先順位を狂わせる麻薬だったんだ、と。
(それで、きみは、しあわせだった……?)
小野フランキスカは問いかける。
芸術家として得難い理解を得ることができた伯牙はしあわせだった。しかし確率論として考えるなら、鍾子期はたまたま伯牙にとっての無二の理解者だったというだけであって、その役回りは鍾子期でなくてもよかったはずだ。また、仮に鍾子期の他にも同様の理解者が現れていたら、伯牙は琴を断たなかったかもしれないではないか。
(なぁ、どうなんだ?)
小野フランキスカはまた問いかける。
きみの犯したまちがいは、鍾子期を特別視し、鍾子期に依存しすぎたことにあるんじゃないのか? いずれまた理解してくれる存在が現れるのを待てばよかったんじゃない? そのとき現れる理解者は、もしかすると鍾子期のそれを凌駕したかもしれないじゃない……? 理解されることを追求せず、じぶんの内側から湧き出る芸術活動への意欲も捨てて、鍾子期とともに芸術家としての〈生〉を終えて、それできみはしあわせだったの?
小野フランキスカは問いかけながら答えに触れている。伯牙は鍾子期を選んだんだ。一個の稀有な才能を独占してしまった鍾子期は罪深い存在だけど、彼と共にあったあいだ、伯牙はさぞしあわせだっただろう。またべつの〈鍾子期〉を求めようとは思わないくらいに。伯牙が琴を断ち割ったのは、鍾子期以外はいらないという決意表明だ。
(なんてばかなんだろうな……)
水星をながめながら、小野フランキスカは自嘲めいたきぶんでとおいむかしの音楽家にふしぎな共感を抱いている。
彼女には、鍾子期も、断ち割る琴もないけれど。
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