デザイン史(概論)#18 ウィリアム・モリス(3)
はじめに(いつもの挨拶)
以前担当していた、大学での講義をまとめて不定期に少しずつ記事にしていっているつもりが、色々寄り道したりしながらぶらぶら書いていく記事になっています。なるべく分かりやすいように、平素に、小分けに書いていくつもりです。
ところでやはり、自分としても力入ったなあ・・という記事はみなさん読んでくれているようですね。そういうものなのかしら。さて、やっとモリスです。ここが本当は出発点だったのですが・・・。しかしモリスについて3記事めですが、なかなか、総括できるような記事になりません。
前回の記事
こちらの記事は、下の記事の続きになってます。今回は単独ではなく続きとして読んでいただいた方が理解しやすいと思います。
ゴシックと労働の喜び との結びつき
昨日の記事では、ラファエッロに代弁されるゴシック批判と、ラスキンのゴシック擁護を対比的に見て、そのような中にモリスが生涯のテーマというかこれからの社会の方向性を見出したことに若干触れたのですが、ゴシックと労働の喜びがどう結びつくの?というところに触れなかったので、???と思った方もいたかもしれません。その辺りを簡単に整理して、概論に戻れたらなと思います。
全記事でも挙げた、ジョン・ラスキン『ゴシックの本質』の中では、前回書いたものの後、当時の労働について書かれています。最も端的に書けば、人間が機械のように労働することで喜びを失う。そしてそのことが最も悲劇であると。そしてこのように書きます:
そして、このような労働から生み出される工業製品についての奨励をすべきではないと説く。そして以下、少し長い引用ではありますが挙げておきます。
これはまさしく現代における工業デザインの形態ですよね。つまり、意匠する人(デザイナー)と、製作者(工場)が文字通り分業されている状態です。そしてそこではデザイナーが上(紳士=ジェントルマン)であり、製作者は下(職工:オペラティブ)と見なされます(もちろんそうではないケースもあります)。そしてラスキンは、畢竟、思考した人=意匠した人=デザイナー本人がそれを作るべきであると言うのです。
ではこれはゴシックとどう関係するのか。これも、引用から理解してもらいたいと思います。
完璧ではない様々なスキルを持つ人間がそれぞれ思考を働かせながら心を込めて作り上げたものこそが高貴であるということですよね。それは機会的な完璧さ、思考停止し言われるままにただ手を動かした奴隷的な労働から生まれたものではないわけです。ラスキンはそれを強調するのであり、だからこそ、逆説的である、不完全、粗野の中に人間の本質を見、それを体現するもの(ゴシック建築)を賛美するのです。そしてモリスはこの労働のあり方と芸術のあり方に賛同し、実践したわけです。
日本の”職人”と薬師寺東塔に重ねて思うこと
余談ではありますが、日本の伝統芸術の職人という言葉は、この意味での職工(オペラティブ)とは明らかに違う意味合いで使われているように思います。国宝薬師寺東塔では1300年前の創建以来初めて全面解体工事が行われました。これは大工事でした。特集番組をいくつか見ましたが、一人一人の職人がそれぞれの想いを込めて、命をかけて仕事に携わっておられました。悠久の時を前に、一人の小さな人間ができることは、ただ自分の全身全霊を労働に打ち込むこと。そしてその労働に喜びを見出していました。この多くの人々の願い(祈り)と労働こそが、まさに1300年もの長い間を、はかないはずの木造の建築が存在することができた、これからもできる原動力であることは明白です。物質を超えているのです。ラスキンはそれに近いことを感じていたのではないかと思うのです。
モリスの仕事
さてモリスに戻りましょう。モリスは私生活ではなかなかの苦難があったのではありますが、精力的にラスキンの理想を実践の中で次々に挑戦していきます。その一つは、染め職人トマス・ウォードル(Thomas Wardle, 1831-1909)と共同して、1881年にマートン・アビーという場所にテキスタイルの工房を開きます。この土地にはワンドル川という染めるのに適した水質の川が流れており、12世紀から染織工場がありました。モリスは当時、天然の染料が減り、人工の染料が主流になっていく中、人工の染料では出せなかった深い青:インディゴの抜き染めの研究を始めます。試行錯誤の結果、1882年に娘のジェニーに宛てた手紙に成功したことを知らせています。ちなみにこの工房は、1904年にリバティ社が引き継ぎました。(そう、あのリバティです。百貨店でもあり、タナローンで有名な・・・ソーイング好きな人は誰でも知っていますよね。(私も大好きなので・・・))
そしてインディゴの染め抜きの技法を完成させ、それに別の色を加えて作られた最初の作品が、この一連の記事の最初に紹介したモリスの『いちご泥棒(Strawberry Thief)』だったのです。この作品を仕上げるにあたり、モリスは娘に宛てた手紙の中に不安を漏らしていたそうです。
ケルムスコット・プレスについてはすでに紹介しましたが、ここでの仕事も手仕事による中世のやり方を踏襲していましたよね。様々な方面での活動も一貫した姿勢がありました。その思想の基盤については概観できたと思います。
モリスのこのような労働に対する実践と作品とは、当然、機械化が高度に進む社会とは相容れないものであることは想像に難くありません。そして、モリスはこのような労働の喜びからつくりだされた芸術作品が、同じく労働者である多くの人々に行き渡ることを夢見ましたが、ここに最大のパラドックスが生じました。つまり、職人が心を込めて作る手仕事の作品は結果として”高価” になり、お金持ちの顧客によって購入される。ということです。
このことは後々になっても、解決できないパラドックスとして横たわり続けます。芸術家を長く悩ませる大きな問題となります。
理想論の裏では、このような矛盾が生じてしまいました。また、のちに建築界でも激しい論争となった「規格化論争」もまた、ラスキンが言うところの芸術と機械化(規格化)についても辿れば同じ根っこだと言えます。
しかし、このようなラスキンの理論とモリスの実践とが、若い世代の芸術家に影響を及ぼし、実質的にアーツ・アンド・クラフツ運動へと繋がっていったと考えていいと思います。
中世の技術を用いてモリスが苦心の末作り出した『いちご泥棒』や他の作品の数々。高価な手作りのテキスタイルではなく、今では100円ショップでも誰もが手軽に手に入れることができるようになりました。(セリアには靴下さえもありました)。まさにこの100円ショップの製品は、ラスキンの言うところのゴシック的ではない労働から生み出されたものでしょう。というよりも機械そのものから生み出されたものでしょう。なんとも皮肉と言いますか、パラドックスと言いますか、私たちが身をおく時代、近代というものの大きな矛盾と言いますか。そういうものを感じますね。
モリスは近代デザインの父 と呼ばれますが、近代デザインというものが始まったのが、”デザイナー” という職能が生み出されつつあった時でもあったわけです。このデザイナーという分業された職能についてラスキンの論じたところ、そしてモリスはそれに対して賛同していたわけです。もしこの後世の”肩書き”から、モリスが工業時代の最初のデザイナーであった、というように容易に想像されるとしたら、それは少し誤解を孕んでいるということがここでは理解できたような気がします。その始まりには様々な葛藤と困難があったのです。
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