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リンドン・B・ジョンソン:ケネディの影に隠れた大統領

未だに根強いケネディ人気

筆者はジョン・F・ケネディ大統領に対して勝手に親近感を抱いている。まず、筆者とケネディは名前、ミドルネーム、名字の頭文字のイニシャルが同じJFKであり、誕生日も時差を考慮すれば同じ日になる(筆者:日本時間5月30日、ケネディ:米国時間5月29日)。だだ、共通点はそれだけにとどまる。大富豪の息子のケネディと違い筆者は公務員家庭の中所得階級に属し、ケネディのような無粋の女好きではない。それらの点では全く違った境遇を経験しており、人格も異なる。

ケネディは他の大統領と違い共通項が比較的多いこともあって、大統領マニアとして最も時間をかけて調べた大統領の一人でもある。

ケネディの大統領としての職務は暗殺という悲劇的な結末が災いして3年にも満たない短いものであった。それにもかかわらず、彼の任期、それだけではなく彼の人生そのものが未だに調査、叙述の対象となっている。それだけ、人間的に魅力があることの証左であろう。「あなたがあなたの国のために何ができるかを問うてほしい。」という彼が就任演説で述べた名文句は多くのアメリカの若者を触発し、彼の若々しさは新たな時代にアメリカが突入したことを物語り、今でもその新鮮さは色あせない。


一方、ケネディは魅力的なだけではなく、実際の政治家としての評価も高い傾向がある。全米の歴史家たちから意見を集めてCSPANが公表しているアメリカ大統領ランキングによるとケネディは2020-2021年版では8位に位置づけられている。

特にキューバに配備されたミサイルの撤去をめぐりソ連と核戦争の間際までエスカレートしたキューバミサイル危機でのケネディの冷静な対応は人類を滅亡の危機から救ったことで賞賛を浴びている。この時のケネディの立ち振る舞いは危機管理のお手本とされ、それについて何冊もの本が出版されており、映画化もされている。


神格化されたケネディの実像とは?

だが、大学で20世紀のアメリカ史を少しかじっていた筆者としてあまりにもケネディが神格化されすぎていると考える。神格化の要因としては、暗殺という劇的な終わり方、その後のベトナム戦争への泥沼化が歴史のイフを呼び起こし、ケネディが戦争を回避したのではないかという希望を多くのアメリカ人に植え付けたことがあげられる。歴史家のシュレンジャーやケネディのスピーチライターであったソレンソンなどといったケネディに心底傾倒したケネディ政権のOBたちがケネディを称賛し持ち上げ続けたことが、ケネディの歴史的解釈を固めたことも神格化の背景として考えられる。

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そもそもキューバミサイル危機は1961年にアメリカがキューバを侵攻したピッグス湾事件が発端であり、この事件を機に政権転覆を恐れたキューバの指導者のカストロがソ連書記長のフルシチョフに防衛してもらうことを望んだことがミサイル配備につながった。

キューバで革命が起こった当初、カストロ政権が反米ではなく、当時の中国やインドのように社会主義国家であっても米ソのどちらにも与しない第三世界の一員になる可能性は十分にあった。しかし、反共産主義でしか世界を見れていなかったケネディを含めたアメリカ外交エリートのパラノイア的思考がキューバを反米に、共産主義陣営に押し込んだことを考慮すれば、キューバ危機というのは単なるケネディのオウンゴールに過ぎないとの見方もできる。

内政の方を見ても目立った実績があまり見当たらない。人種隔離の撤廃などを視野に入れた包括的な公民権法が法案化されることをアメリカ国民に訴えったことは評価できるが、結局それは人種隔離の継続を望む南部民主党の抵抗によって妨害され、同じく肝いりの法案であった減税法案も拒否権を行使された。(暗殺されたテキサス州ダラスでの演説で減税についてのスピーチが行われる予定だった)

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ケネディが魅力的な人物であることに疑いようがないが、彼について研究していくと過大評価されている感が否めない。

だが、ここ数年でケネディが成し遂げられなかった政策、特に公民権法について関心を寄せていると、一人の人物に関心が湧いてきた。それだけではなくその人物はあまりにも過小評価されているとも感じる部分がある。

その人物とはケネディの副大統領であったリンドン・B・ジョンソンである。


抑圧されてきたアメリカにおける有色人種

ジョンソンが記憶されているのはベトナム戦争のアメリカ化を推し進め、後戻りのできない戦争にアメリカを追いやり、多大な犠牲をアメリカ人、ベトナム人に強いたことだ。ジョンソンのレガシーはベトナム戦争と切っても切れない関係にある。

しかし、彼はケネディが成し遂げらなかった遺産を形にした。それは上記でも言及した公民権法案の制定だ。(ジョンソンは減税法案も法律にしている)ジョンソンが達成するまで長らく実現不可能なものだと思われていた。

アメリカにおいて有色人種は差別されつづけ、人間扱いされてこなかった歴史がある。黒人の場合は完全な人間として見なされておらず、初期の合衆国憲法では「5分の3条項」という形で存在が歪曲的に明記されており、奴隷制の下で劣悪な、非人道的な環境で労働を強制されていた。


南北戦争で奴隷制を掲げる南軍に勝利するためにリンカーン大統領は黒人を戦力として導入するという軍事的観点、そして奴隷制に敵対的な英仏の協力を得るという政治的観点から奴隷解放宣言を発した。よって奴隷制は廃止され、黒人は自由を手にするはずだった。しかし、数百年もの間、隷属状態にあった黒人たちにとって急に自由を与えられたところで、独り立ちするだけの財産もなく、結果的には形式を変えた状態で実質的には奴隷であることに変わりはなかった。


戦後、アメリカ政府は奴隷制度がバックボーンであった南部を変えるために、再建期を通じて、黒人を南部社会の中に統合するために軍隊も導入した占領政策を実施したが、それも長くは続かなかった。1877年の大統領選は大接戦となり、選挙の勝者を認定する日まで誰が大統領になるか定まっていなかった。


そこで共和党と民主党は妥協を行った。共和党のヘイズが大統領になる代わりに、連邦政府は民主党が地盤を置いていた南部から軍隊を引き揚げ、南部の政治に介入しないことが約束された。その結果、南部の州は一挙にジムクロウ法と呼ばれる人種隔離政策などの差別的な法律を次々と制定し、南部は南北戦争前に先祖返りした。それから、約100年間、黒人はリンチされて殺されても保護もされず、仮に裁判に至っても白人至上主義の巣窟となっていた司法は加害者であった白人たちを免罪した。


差別は南部だけの問題ではなかった。同じような人種差別的な法律、制度は比較的黒人に寛容だった北部でも実施された。そして、人種隔離は黒人だけではなく、アジア人にも適応された。アメリカにおける有色人種の問題についてよくクローズアップされるのが黒人だが、アジア人も差別の対象であった。黒人と違いアジア人はそもそも「帰化不能外国人」として認定され、アメリカ人になる権利も持っていなかった。


1950年代に入ると少し状況が変わる。冷戦の勃発に伴い、アメリカはソ連と世界の覇権を争い始めた。その過程で足を引っ張ったのが国内の人種問題だ。ソ連はアメリカを貶めるためにアメリカにおける黒人問題を煽り、白人の圧政に苦しんできた新興国の支持を集めようとした。それに脅威を覚えたアメリカは道義的優位性を取り戻し、ソ連の拡張を抑えるために、人種差別的な政策の撤廃、公民権法の制定に乗り出す。公民権の問題にまず初めに真剣に取り組んだのはトルーマンであったが彼を含め、その後に続いたアイゼンハワーやケネディにとってそれは高い壁であった。


壁となっていたのはアメリカ議会の上院で、今でも存在するが上院には議事妨害という制度があり、それがあることにより5分の3の賛成が無ければ法律が通せない場合が存在する。元々そのルールは少数者の利益が多数に蹂躙されることを防ぐためにあったが、実際は南部の差別主義者に利用されることになった。上院の過半数が合意しようとも南部の「伝統的な」生活習慣を守りたい南部の議員たちは人種隔離の禁止を頑強に抵抗した。抵抗などするものなら、議事妨害が発動され、すべての法案の審議がストップし、政権が機能不全に陥る。ケネディもその被害者となった。

そのようなあまりにも高い壁をいとも簡単に壊したのが南部テキサス州出身で、南部民主党の有力者のパトロンとなることで権力の階段を駆け上ったジョンソンだというのは歴史の皮肉以外に表現することはできない。

権力は本性を現す

1963年のケネディ暗殺後に公民権法の制定を最優先課題として取り組むと議会で言明するまでジョンソンは有色人種、人種問題の改善を望む人々にとって敵に等しかった。


彼はジョージア州上院議員で、人種差別主義者として悪名高いジョージ・ラッセルを代表とする南部勢力の一員となることで政界で頭角を現した。上記の公民権法の制定を望む大統領たちが提案する措置に次々と反対した。

だだ、彼自身根っからの差別主義者だったわけではない。例えば、ジョンソンは若いころにメキシコ系アメリカ人の学校で教師として教えていた経験がある。ジョンソンがそもそも人種的偏見を兼ね備えた人物ならそこで働くようなことはしない。また、その経験から差別と貧困の問題を深刻さを思い知り、政治家としてライフワークとなった旨を後に述べている。メキシコ系の兵士が白人の墓地で埋葬されるのは拒否された時にそれに憤り、アーリントン墓地に埋葬される手配も行ったというエピソードもある。

ジョンソンの人生を長い目で見ると、弱者に寄り添う思いやりの心の持った人物という一面が浮かび上がる。だが、彼の伝記作家であるロバート・カイロが著書で述べるように、ジョンソンの思いやりは彼の野心と競合した際にほとんどの場合は打ち消されてしまう。

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南部の議員たちが迎合し続けたことがその例だ。南部の合意がなければ一本の法案であっても通せない状況で議会で何かを成し遂げたい、議会での経験を基盤として大統領になる心づもりがあれば南部議員の協力は不可欠である。

若いころから大統領になる野心があったジョンソンは南部議員と行動することが大統領への近道だと認識し、その方法で権力を握ろうとした。結果的に彼は南部とのつながりに嫌悪感を抱く北部州の支持は集めることができず、屈辱的にも上院で自分が顎で動かしていたケネディに大統領を座を奪われてしまった。

何が何でも大統領になりたいジョンソンはいちるの望みを賭けて、大統領に昇格する可能性がある副大統領の座をケネディからもらった。だが、副大統領時代のジョンソンは惨めな時間を過ごした。「上院の魔術師」として法案をいくつも成立させていた上院院内総務として権力は無くなり、ケネディ政権の意思決定からはずされ、ケネディは1964年に別の人物を副大統領にしようとしていた。それほど、ジョンソン副大統領の権威を失墜しており、政治的に死んでいた。

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そのような状況を一変させたのがケネディの暗殺であった。ケネディの死去に伴いジョンソンは憲法の規定により大統領に昇格することになった。

ロバート・カイロによれば権力は腐敗するが、それは人の本性を現す力もある。ジョンソンの大統領就任後の変貌はまさにカイロが指摘する通りである。

上記でも述べたようにジョンソンは大統領就任後は公民権法を制定に勤しみ、長い議会での経験を活かし、反対勢力をアメとムチで切り崩し、説得し、あらゆる人種の隔離を違法にする公民権法の制定にこぎつけた。その後、有色人種が投票所で人頭税を課されることや筆記試験を課されるなどの差別的な対応を受けないことを目的とした投票法を通し、高齢者層や低所得者層向けの医療保険制度を創設した。

大統領となったジョンソンは偉大な大統領として後世に語り継がれたいという野心から、また彼の心の底で眠っていた思いやりに突き動かされ弱者を救済するための法律をいくつも作った。

権力がジョンソンの真の本性を現したのである。

権力を使うことに重きを置いた政治家

歴史家にはベトナム戦争さえ無ければジョンソンは本当に偉大な大統領として歴史に名を遺したであろうと指摘する人もいる。

ジョンソンは欠点が多い政治家であった。時に傲慢で、頑固にもなり、秘密主義なところもある。そういった性格のせいでベトナム戦争を回避することができなくなり、戦争が長引く過程で国民からの支持を失った。

だからといって、弱者救済のために勢力を尽くした一面を過小評価されてはならない。まだまだ人種の問題が残るアメリカだが、彼が公民権法を制定したおかげでアメリカは「すべての人は平等に作られている」という建国の理念に近づくことができ、有色人種の血を引いているアメリカ人として彼のレガシーの恩恵を受けている自分もいる。

昨今、変わらない政治の側面であるかもしれないが、権力を使って私腹を凝らし、権力があるにもかかわらず持っていることに満足をしている政治家が後を絶たない。ジョンソンのように弱者救済という崇高な目標のために権力を手にするだけでではなく、それを実際に行使して現実のものとするスケールの大きい政治家があまり見当たらない。

筆者は燦然と輝くケネディも好きだが、スケールの大きく、人間味のある政治家であるジョンソンも好きである。







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