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脱・残念な『オッサン』~多面的に物事を捉える~木下さんとkagshunさんの対談を聞いて

はじめに

木下斉さんと精神科医kagshunさんの対談がVoicyの有料放送で公開されていました。

kagshun先生による『公開カウンセリング』のような形で、木下さんがどのようなきっかけや考えで今の木下さんになったのか、じっくりと聞ける対談です。


私も木下さんのキャリアや生い立ちに関しては過去の放送から断片的には存じ上げていましたが、改めてストーリーとして聞くと一人の人間の生きざまとしてよりリアルさを覚えました。

同時に、木下さんの人生のストーリーを聴いたときに『断片的な情報だけで判断する危うさ』を覚えたところです。

断片的な情報だけで判断していないか?

日々木下さんのVoicyを聴いていると、時には『いやいや、それは木下さんのような頭脳明晰な人じゃないと無理だよ』とか『色々なところに旅に行ってるから出来るんでしょ』などと思ってしまうことがあります。

あたかも木下さんが何の努力もせずに今のポジションを確立したかのように思えてしまう、ということです。

対象は木下さんに限りませんが、自分には成しえない「すごいこと」をしている人の話を聞くと、そのようにふと思ってしまう経験はおそらく誰にでもあるのではないでしょうか。

でも今回の対談にて、木下さんが高校時代に文転(理系クラスから文系クラスに移ること)したお話や、苦労のあまり髪の毛が抜けてしまった話など、ストーリーとしてこれまでのキャリア・生い立ちを聞いて、人を断片的な情報だけで判断することがいかに厚かましいといいますか、捉えようによっては相手にものすごく失礼だよなと思った次第です。

気を付けたいと思ったこと

私も完璧な人間ではないので、疲れている時などは『Aさんは良いよね、○○の才能があって』みたいに、その人が何の努力もせずにその才能を身につけたかのような、ひどい言い方をすると「○○を持っててズルい」という感情を覚えてしまうこともあります。

もちろん、力士で言う生まれ持っての体格や、良い家柄のご出身など、もはやどう逆立ちしても勝てない要素も時にはあります。ただ、たいていのスキルは水面下で一生懸命水をかく白鳥のように、その人の努力があって獲得したものだと思うのです。

その人の努力や背景も考えないで『○○のスキルがあってズルい』などと考えるのは、ものすごく短絡的で恥ずかしい、私の忌み嫌う『オッサン』のような発想だなと思いました。

なぜ『オッサン』を引き合いに出したかと言うと、私の発信では価値観やスキルをアップデートできていない人を総称して『オッサン』もしくは『ジジイ』と表現しています。見えている部分でしか判断できない=多面的思考が出来ない=社会人のわりに子供っぽい=オッサン・ジジイ、と考えたからです。

また、スキルとは違う観点で言うと、過去の職場でも、自分の偏った『期待』にそぐわないという理由でとある人のことを『使えない奴』と表現する人や、学歴や出身地といった判断軸でジャッジして人を下に見る人(「オッサン」とその予備軍)を見てきました。

先ほどの『○○さんはズルい』とは毛色は異なるものの、彼らの場合は自分にとって見えやすい相手の特徴だけで相手をすべてわかった気になり、ジャッジしているわけです。

彼らは一定の『判断軸』をベースに人をジャッジしているため、いざ自分より『下』として今までディスっていた相手が彼らの上司になったときに急にシュンとおとなしくなったりと、はたから見ると残念な光景も目にしたことがあります。

そのため、表面やわかりやすい情報だけで判断する成れの果てが、『オッサン』もしくはその予備軍であり、場合によっては仕事のパフォーマンスや人間関係にも支障をきたすのかと考えると、そういった考え方で人を判断する習慣からは決別したいと思った次第です。

最後に

ということで、木下さんとkagshunさんの対談をきっかけに、人様の表面的な情報で勝手にジャッジしてわかった気になる習慣がいかに短絡的で、私の忌み嫌う『オッサン』のようだと気づきました。

表面的な情報で物事を表現したりジャッジするのは物凄く単純明快でわかりやすい反面、本質を理解できないまま通り過ぎてしまう危険性もあります。

何かの物事や人に対して、『○○さんは特別だよね』といった感情や、わかりやすい特徴だけで『あの人は○○だ』などと判断してしまいそうになったら、表面的な情報でジャッジする『オッサン』になりかけているぞと、立ち止まる習慣を身に着ける必要があると考えます。

それではまた!


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KASHIWA@マイノリティキャリア
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