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息をするようにエネルギーを消費する社会に対する無力感

とても暑い。
今日の夕方、家に帰ってくると、室内の温度は37度を超えていた。
ちなみに昨日は38度。これまでの最高気温は40度。
最近は35度を下回る方が珍しい。

私はワンルームマンションの角部屋で一人暮らしをしている。
最近の帰宅後のルーティーンは、
扇風機の風力を最大にして、大きな窓2つを開けて、換気扇をつけて、
蹴とばせば穴が開きそうな玄関のドアに、靴を挟んで少し隙間を確保する。
リビングの電気はつけない代わりに、レースカーテンだけ閉める。
風が入ってきやすいようにね。
仕上げに保冷剤を数個、テーブルの上にばらまく。

あとは、風の力と、人間の身体の適応力を信じるのみ。
今日は、30分ほどで35度まで下がった。
ひとまず今日は、このまま過ごせそうだ。
体調にもよるけれど、33度くらいまでは耐えられる身体になった。
今は34.8度。不快のような、心地いいような、ぼーっとするような。

あんたは物好きだ。ただのやせ我慢だ。熱中症になったらどうするんだ…
あなたは、私にそう言いたくなっただろうか?


なぜ私がエアコンを使わないか。
ひとつは電気代の節約のため。
もうひとつの理由は、エアコンを使うたびになんだか心が痛むから。
たぶん後者の感情の方が大きい。
微力ながら節電に協力したい。環境破壊が進んでほしくない。
地球のどこかで暑さで死んでいく生き物に思いを馳せていたい。
脳死で快楽を求める人々とは同じになりたくない。
本気でそんなことを考えている。

おかげで夏は34度まで、冬は-5度まで耐えられる身体になった。
まぁしんどい時は、33度でもつけて部屋を冷ますし、昼間にどうしようもなく数時間使うこともある。電気をつけっぱなしで寝てしまう時もある。
私には選択肢がある。だから私はずるいのかもしれない。


昔から、環境問題への影響や日常生活における無駄に敏感な子だった。
近所のスーパーの食品ロス、母親が存在を忘れていた野菜や作り置きの料理、着れるのに捨てられる服、使えるのに捨てられるおもちゃ、必要ないのに配られるイベントの景品、分別されないゴミ、無駄に消費される電力。

「これまだ食べられるよ。」
「一昨日の残り物あるじゃん。それ食べればいいんじゃない?」
「もったいないから、私たちが買おうよ。」
「それ分別できてなくない?」

食い意地を張っていただけかもしれないが、
まじめすぎただけかもしれないが、
小学生ながらに、私のコントロールできる範囲で、なんとか日々の無駄をなくそうと、環境に優しく生きたいと願い、気を付けてきた。
家の食材事情に口を出しすぎて、母親にはよく逆ギレされた。
中学生の途中で、実家の勉強部屋に導入されたエアコンは、
使わなさ過ぎて度々怒られた。
お風呂に溜めたお湯を優先的に使っていたら、けち臭いと文句を言われた。

さて、大学生になり、一人暮らしが始まった。
エネルギーやお金を無駄遣いするも我慢するもすべて自分次第。
知らぬ間に、安いものだけ、必要なものだけ買うくせがついていた。
言い換えれば、必要の基準が定かではなく、上手にお金を使う方法が分からなくなっていた。節約生活のおかげで貯金は増え、代わりに年相応の文化が身に付かなかった。
大学生になってから、食材を捨てたことは片手で数えるほどしかない。
「ちゃんとエアコンつけるんよ。電気代は出してあげるけんね。」
夏と冬の母親からの連絡には、よくこの一言が添えられていた。

エアコンは、部屋に誰かが来た時に使った。
彼氏が泊りにきた時、一晩中稼働するエアコンにドキドキした。
電気代大丈夫かな…環境負荷ってどれくらいなんだろう…
当初は彼氏が隣にいることよりも、そちらが気になっていたかもしれない。
「この部屋ほんとに暑いよね。設定温度下げるね。(私は平気だけど。)」
夏も冬も、エアコンを長時間使うのは、2人でいる時だけだった。


「あのー、めっちゃセミが鳴いてません?もしかしてエアコンつけてないんですか…?」
今年の7月中旬のある午前、ZOOMでのとある1on1で相手から驚かれた。
「エアコンが好きじゃないって珍しいっすね。俺はずーっとガンガンにつけてますよ。」
東京に住んでいるという彼は、画面越しに涼しげな笑顔を見せた。


ヒートアイランド現象のせいか、地球温暖化のせいか、
日本の夏は年々暑くなっている。
地球全体もまた然り。
猛暑による死者が増加し、世界各地で山火事が多発している。
極端な気温上昇により、世界中でエアコンの需要が高まっている。
日本の福祉領域では、エアコンの貸付サービスが始まっている。
エアコンは国々のナショナル・ミニマムになりつつある。

外は暑くてたまらないが、キンキンに冷えたスーパーやコンビニや電車や大学の教室が待っている。家に帰れば、エアコンと扇風機を独占できる。
目的地が涼しいと分かっているから、私たちは移動中も我慢できている。

至るところで節電の呼びかけがなされる一方で、ニュースでは熱中症対策のためにエアコンの使用が呼びかけられている。熱中症で死んでいく人々がいる一方で、高齢者の避暑地となっている図書館などの公共施設はどんどん縮小される。無駄と思われる都市開発により増設された商業施設では、朝から晩までエアコンが効いているが、その中にフリースペースはほとんどない。

もちろん、暑い国で生産力を維持するためにはエアコンが必要であることもわかる。生命維持のためにも必要であることもわかる。経済を回す必要があることもわかる。

でも、私はなんだか納得できない。
現状よりも賢く、効率的に、共存していく道があるのではないか。
少しだけ不快感に耐えること、経済成長よりも持続可能性を重視すること、私ではなく私たちを主語にすること、環境変化を肌で感じること、私にできるアクションを考えることが、当たり前になってもいいのではないか。
生き延びるために、戦略的に公共空間で涼むことも必要ではないか。
べつに全員がやせ我慢をして死ねと言っているのではない。
できる人が、己の脳みそを使って調整をすればいい。誰かのせいにするのではなく、自分で考えて、判断して、アクションを起こせばいいじゃないか。
不快から目を背け、快感を目指すことを善とする社会への違和感である

同時に、知識を持たない私、快感を求める私自身への無力感や怒りがある
私は、エアコンの使用と気温上昇の関係について議論する知恵を持たない。
学術的な議論をしたいわけでも、私を肯定したいわけでもない。
あまり人類の未来に期待はしていない。
私の日々の行動は、異常なけち臭さに起因するのは事実であろうし、
息をするようにエネルギーを消費する社会に対しては無力である。

それでも、私は学び続け、思考を続ける。
あと2カ月、今年も生き延びねばならない。

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