掃除ができないとかしたくないという次元ではない

またこの人、できないことの記事書いてる。

諸々をうまくやり遂げれば、来年の春には今の住居を出ていくことになる。引っ越しもかなり憂鬱なのだが、それに伴ってずっと心のなかでくすぶっているのが、できるだけこの家を綺麗にして出ていかなければならない、ということである。そこで改めてこれを書いている机から振り返って部屋を見渡すと、まあびっくりするほど汚い。

ローテーブルの上に折り重なった郵便物。折りたたまれていないAmazonのダンボール。またすぐ開けるから、の連続で閉められたことのない押入れ。これらの言葉を見た人たちは、どんな部屋を想像するだろうか。ご自分のお部屋がちょっとだらしなくなったくらいだろうか。一旦それでいい。

幸い足の踏み場がないということはない。フローリングやカーペットの大部分を普通に見ることができる。一昔前にテレビで取り上げられていたようなゴミ屋敷よりはモノがないことがわかっていただけたらいい。

では、その想像した部屋を、もう少し拡大してみてほしい。解像度を上げてみてほしい、のほうがいいだろうか。それなりに開かれた床面やカーペットの表面。それがダメなところだ。そこには、大量の髪の毛と、なんだかよくわからない黒ずみと、固くなって踏むと痛いお米の欠片と、その他いろいろな「手で持って動かす」ことを免れた汚れが、まんべんなく広がっている。

ここで綺麗好きな方、いや、大抵の方は悲鳴をあげるのだと思う。わかる、わたしも汚いと思う。頭では、理屈ではそう思う。これが汚いこと、恥ずかしいことはわかっているから、友達は絶対に呼べない。何かの拍子にこのnoteアカウントをTwitterなどと結びつけることになったら、真っ先にこの記事を非公開にするくらいには、本当に恥ずかしいことだとは思っている。

でも、そんな風に思うのに、私はこの部屋で、もう数年間暮らせてしまっている。毎日掃除をする習慣がなくても、死なないし、友達はいるし、単位はとれるし、就職はできることを知ってしまっている。多分そういった長年の経験が、わたしの意識の中で掃除を「しなくてもいいこと」に分類している。したらそりゃそのほうがいいに決まっているけれど、しなかったところで別にいい、みたいなこと。実家にいたときはあまり子どものいない時間に母や祖母が掃除をしていたから、何もしなくても家は綺麗だと勘違いしていたというのもありそうだ。

でも、実際引っ越しが目に見えてきた以上はいつかは避けられない、しなければいけないことになってきたし、何もしなければ家が汚れることは実体験としてわかってきた。状況は変わって、条件は整ってきた。それなのに、気持ちだけが適応できない。ちょっとずつ片付けをする日を作って、済んだら掃除もして、あとは毎日少しだけやっていけばいいはずなのに、それをしようとすることが、すごくつらい。あと、こんな汚い部屋で毎日寝て起きて生きているくせに、掃除の過程で汚いものに自分の意志で触るのが何故かすごく嫌だ。こういう、変な方向に凝り固まった気持ちと状況のすり合わせができないままで、「そろそろ引っ越しの準備をしなくちゃ」という気持ちだけが日に日に大きくなっていくのが、不安でたまらない。

なんとオチがない。掃除しなきゃいけないのにどうしても掃除できない!なんで!?どうしよー!!これで終わり。現在進行系で動けないままこの記事を書いている。掃除ができないダメ人間の記事をお探しの方の検索で引っかかって、自分よりマシかもしれん……と思ってもらえたら、ちょっとうれしいと思う。それで掃除ができるかはわからないけど。

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