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ポストクラシカルの時代においてノイズとは何か
東京都現代美術館の坂本龍一展覧会「音を視る 時を聴く」に行ってきた。展示の内容が長時間かかるものであり、混雑というよりは回転が追いつかなくなることは明白だったのではないだろうか。内容は非常に良かっただけ、美術館側が初めから日付指定のチケット制にしなかったのは考えが甘かったとしか言いようがない。私は無事全てを観ることができたが、本当に観たい人がちゃんと観られたことを祈る。同じ東京遠征の日程でHania Raniのライブを観てきた。中々ポストクラシカル、ネオクラシカル一色の東京遠征だったと思う。
月並みな感想になるが、ポストクラシカル、とりわけ音響派やアンビエントというジャンルにおいてノイズ-雑音とは何なのか、それを考えさせる二日間だった。坂本龍一展覧会の一場面で、ある老夫婦が小声でずっと会話をしていた。展示の内容としては静かな部屋で響く音を聴くという場所だったのだが、それだけに余計気になって仕方ない。私からしたらもちろん彼らの会話は「ノイズ」でしかない。しかし同時にこのような美術館という空間で、しかも会話自体が禁止されてない以上、アンビエントや一部の音響派音楽からすればこの種の雑音は音楽経験の一部として解されるべきである。今更説明することでもないが、ジョン・ケージの有名な「4'33”」は無音なのではなく、その場にいる聴衆や演者の息づかい、衣擦れ、あるいはもしかしたらちょっとした会話などもその音楽の一部となる。音楽とノイズの間に明確な差異はないのだ。本展覧会がどれだけ坂本龍一の意向を反映しているのか、その展示の意図がどうであったかは詳細には分からないが、彼らが属している文脈に即して言えば最低限上記のような共通認識はあるはずだしあってしかるべきだ。
Hania Raniのライブではもう少し違うことがあった。なんと撮影録画OKという破格のライブだったのだが、「静寂が演出として使用されるため、カメラの撮影音は鳴らさないように」との注意がされた。いやそれは無理だろと思うかもしれないが、そもそも撮影可というのが破格の条件でありかつHania Raniのライブにくる人ならポストクラシカルのなんたるかくらい分かっているだろう。しかし曲間に疎ではあるがピロンピロンとiPhoneの録画開始音が聞こえた。最低限の礼儀として、爆音で演奏してる時に録画を開始しておけばいいのにと思った。いくらでも工夫はできるだろう。これはノイズなのか、ライブという場において生じた「偶然的」な現象なのだろうか。
アンビエントミュージックは、作品ではなくBGMとして聴かれることを念頭に登場した。ブライアン・イーノは空港で誰が騒いでても「俺の曲を聴け!」とは決して言わないだろう。「家具の音楽」を提唱したエリック・サティは自分の曲に聴き入っている聴衆に対して「もっと喋れ!」と言った。彼らの音楽が現代のポストクラシカルに大きな影響を与えていることは確かだ。音楽と非音楽、音楽とノイズの間の境界線を曖昧にしていくこと、これは近現代音楽の主要テーマの一つであると言っていいだろう。
では私がこの二日で感じたものは何だったのか。作者の意図しなかったものはノイズか?聴衆が不快に思ったらノイズか?文脈が違うから?どのようにも説明はできるが、どのように説明できたとして結局は「主体」、「作品」といった近代的概念に戻ってしまうこととなる。統制下に置かれた偶発性などという飼い慣らされた概念では現代芸術に未来はないのではないのか。少なくとも坂本龍一はそう考えるだろう。
細野晴臣のライブ音源で「皆さんごゆっくり食べててください、音楽とはそういうものですから」とMCが入るものがある。何気ない一言なのだが、私はかなり感銘を受けたのを覚えている。音楽を高尚なものとして、あるいは閉じた一つの作品として消化-昇華すること、非常に近代的な仕草である。これ自体西洋文化が形成した、かなり異質な形状であることをまず理解するべきだ。その上で私たちはそこに囚われていることも理解するべきである。
坂本龍一の展覧会にて彼の手書きのメモにDeleuzeという懐かしい名を見つけてしまい、少し哲学チックな事を書きたくなった次第である。
ちなみに私はairpodsのノイキャンは適宜付けたり消したりしている。