雲や霧があっても日光は私に届く
遺言・相続・葬儀・埋葬のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
詳しくはこちらのホームページから。
昨日は朝から雨模様で、午後になるにつれて少し回復してきましたが、曇り空が続き、何となく頭痛と気分の重さで身体が動きにくい一日でした。
天気病とか気象病と呼ばれる気圧、温度、湿度などによって、体調が変化する不調があるそうで、多分私の調子の悪さもそういった所なのだろうと思います。
午前中の学童の理事会だけ出席したら、後はゆるゆるとした仕事のペースで何とか過ごしていました。
夕方になり、子ども達を園や学童に迎えに行くために外に出ると、プランター栽培しているバジルや大葉の成長が見られました。
朝からほどほどに雨も降り、午後からは曇っていたものの、そこそこ暖かくなるくらいの日差しがあったので、成長にほどよい環境だったのかと思います。
雨が降ったり曇った天気の中、太陽の光が多少遮られたとしても私たちの所まで届いていた効果かな、と感じました。
そう感じていると、日曜日に参加した「聖典学習会」の最終回の難波教行先生の講義を思い出しました。
真宗門徒が日々のお勤めで詠む「正信偈」の中のある部分についてです。
正信偈は正式名称「正信念仏偈」といって親鸞聖人の著作「教行信証」の中にある七言 六十行 百二十句の韻文です。
経典では、阿弥陀仏は智慧の光であると表現されており、ここではそれを太陽の光に譬えています。
阿弥陀仏が私たちを救おうと照らそうとしても、私たち自身の貪りの気持ちや怒りの気持ちが雲や霧となって邪魔しようとします。
しかし、たとえ雲があったとしても、日の光は雲の下の私たちまで届く、ということが表現されています。
20年前に大谷大学でも学んだ箇所ですし、あちこちの法話でも聞く話です。
その度に「阿弥陀さんのパワーは凄いんだなぁ」と阿弥陀仏側にばかり私の視点が行っていました。
しかし、今回の難波先生の講義では、この日光があるからこそ、私の貪りや怒りの気持ちが雲霧となっていることに気付くことができる、と私側の視点を提示されました。
先生は補足で、月も出ない闇夜であれば雲や霧にも気付かない、日の光によって私が私自身を見つめ直すことができるのだ、と話されました。
また、たった百二十句、八百四十文字の中で「雲霧」という言葉をわざわざ三回も用いたことの意味を問われました。
宗教の話でなくても、私たちは日々、正解を提示してもらってそちらについて行きたい、正解の真ん中を歩いて行きたいと正解を提示する側(太陽)に意識が行きがちです。
正解から外れてしまう自分の内面から出てくる要素(雲霧)については、正解を教えてもらって切り離してしまえば良い、と考え、なぜその要素が出てくるのかを問うてはいきません。
また、正解から外れた人を劣った人と見做しがちだという気もします。
このことについても難波先生から、近視眼的な高所大所から全体が見えていない視点であるという話をいただき、本山から発行される「同朋新聞」の対談記事を引用されました。
「上」から見れば同じアリにもかかわらず、アリ同士で優れた、劣ったと言ってしまう私たちの心ですが、そこに正解という「情報」を提示するのが大事なのではないと難波先生は言われます。
優劣を付けたがる心が阿弥陀仏の智慧の光によって明らかにされ、その心によって本来の道から異なってしまったことを歎き、歎きを「物語」として紡いでいくことによって、教えが今、私たちまで届いているのだ、と言われました。
偉いお坊さんのありがたいお話ではない、親鸞聖人含め真宗門徒の悩み、苦しみ、もがきの告白によって、私たちはあらためて他と比較したがる自分に気付くことができるのだ、と教えていただきました。